武蔵野独り暮らし、日々雑感。
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 連続テレビ小説『カーネーション』。“尾野真千子版糸子”が、きょうで終わった。 いま、5回目を鑑賞しながら、このエントリを綴っている。 いつもにも増しての、いわゆる「神回」。 この国は、いまこういうときだからこその、素晴しいドラマを得たと心から思う。 まずは尾野真千子さん、本当にお疲れさまでした。空前のヒロイン像を見事演じきったことに、感服しまた感謝いたします。 さて—— 一部のすでに鬼籍に入った人々を除く劇中のオールスター総登場ともいえる“もうひとつの最終回”。 それを初回と同じく——しかし夜の——だんじり祭りから始めるあたりがまず、このドラマに通底するリフレインの妙。そして相変わらずの、みんなそれぞれのがちゃがちゃ感(笑)。こういうのが、上手いなあと思うわけだ。 そしてしれっと「チビはもう増えすぎて、どれが誰の子ぉやらわかりせん」というナレーションを挟むw いやー、たまりませんな。 (後述するがこれがまた、クライマックスに繋がる) そして導入部としてのがちゃがちゃのあとに千代お母ちゃんのいよいよ危険が危ないという場面で視聴者を不安にさせ、しかし恵さんのやさしくきっぱりとした言葉でぐっとさせる……と思いきや、さらに直後に同じく恵さんの奇声と女走りですぱーんと笑かせられるwww いやもうね、脚本、演出、そして演技等々に、いいように踊らされている俺たちファン(^_^;) ところでこの『カーネーション』の魅力というのは、まさに上記シークエンスに表れているのではないかと俺なんか思うわけだ。 例えばいよいよヨイヨイになっている木之元や木岡のおっちゃんなども含め、あえて——カーネーション風に乱暴にいえば——老人ボケというやつは、「老いのかなしみ」があると同時にまた、まさに「ボケ」ではないが或る種の可笑しさも伴うものだ。千代お母ちゃんを思わず怒鳴ってしまった糸子のように老人ボケに対して怒ったり悲しんだりすることもあるが、あまりにも突拍子もない言説・行動に対して吹きだしてしまうこともある。 つまり、「苦笑い」とか「泣笑い」とかいうやつ。 苦しみだけでも泣きだけでもなく、そこにまた笑いもあるということ。 『カーネーション』が素晴しいのは、こうした“どちらともつかず”が常に描かれてきたことだと思うのだ。 表裏一体とか、両側面というか、間《あいだ》とかいったもの。人や、物事や、歴史的事実とか、そういったものに対して、二元的とか、一面的に描かれてはけっしていない。 視聴者の各々が自身の来し方を振り返ってみれば歴然だが、ヒトが生きる、生きていくということは、けっしてゼロかイチかとか、勝ち組か負け組かとか、そんなモンでは語れないものだ。 それが——ことにこの数年、さらにいえばネット上でのやりとりなどにおいて——どうにも是か非かばかりの短絡的な言説や価値判断が目立つ。 まさに今週の『カーネーション』の前半における病床の玉枝さんの台詞等々においてもネット上において、やれ自虐史観だのといった“祭り”になったことは記憶に新しいわけだが、いやいやいやいや、『カーネーション』ってのはそういう論争云々に落としてオシマイってなことを描いてきた作品ではないでしょうということ。 夢と理想と現実と。成功と失敗と。思い通りにいかないことたち。その、振り子の加減。 それを、丁寧に。 後述というかいうまでもなく今回の大クライマックスは善作お父ちゃんが「(回想)」でも「(写真)」でもなく再登場したことにあるわけだが、その善作にしてもドラマ当初は或る判断基準にのみ固執するかたがたにとってはドメスティックバイオレンスばかりがカンに障ったらしくさんざん批判されたわけだけれども、いまや善作無しでは夜も日も明けないほどの大ファンを獲得している。 そういうことだろう。 勝てばいい、売れればいい、繁栄すればいい、否定すればいい、批判すればいい、品行方正で爽やかであればいい(笑)、等々……何かこう、くどいようだが是か非かとかイチかゼロとかそうした判断ばかりできた、ことに近現代史に対しての、渡辺あやの、静かな、力強い“思い”を感じるわけだ。 さてそしてまたきょう糸子は「岸和田で生きていく」を北村に対し宣言したのだけれども、この言葉に到るまでの五軒町やその周辺の人々とその関わりを丁寧に描いてきたからこその力強さがある。 「どれが誰の子ぉか〜」という台詞は、糸子が根源的に“岸和田の人”“地の人”であることの表出だろうと思う。 かの東北の被災者のかたがたにおいても先述のようにゼロかイチかだけで考えれば、極端ないいかたをすれば「とっとと故郷を捨てて別天地で頑張ればいいんじゃない?」ってのが、短絡的にいえばそうなるかと思う。 が、もちろんそうではないわけで、そうしたことがじりじりと視聴者の潜在意識(イドの怪物©『禁断の惑星』)にうったえるわけだ。こういうところが、『カーネーション』は上手い。 そして北村との別れ。 20年以上、ほとんど半同棲というか疑似夫婦——優子、直子、聡子にとっては父親——だった北村。 が、その北村は、ここに来て、いわば“グローバル・スタンダードへの勝負”をしようとしているわけで、その思考/指向は、いかにも野郎っぽい(♂にはそうした性癖があるもんだ)。そしてそうした北村に対し、“地に生きる”を選んだ糸子。 ここがまた、見事というしかない。 さらに北村はいわば“人生最後の大勝負”を指向しつつ、この先は“独り”になる糸子に対して精一杯の思いやりを見せる。 男として。 ホンモノの野郎として、ご婦人に対しての、精一杯の思いやりを以て。 素晴しいなあ。 『カサブランカ』『ラ・マンチャの男』『ルパン三世 カリオストロの城』『シラノ・ド・ベルジュラック』に匹敵する、野郎のダンディズムここに極まれりだ。 そして糸子に一蹴されるトコがまた(笑)。これぞ、泣笑いだ。 ほっしゃん。 @hosshyan も本当に、お疲れさまでした(T^T) さて、大クライマックスについて。 先述のようにほぼスターたち登場の場面において、千代と善作を描くのは大反則(ToT) これもまた、直前に到るまで千代お母ちゃんを丁寧に描いてきたことの勝利だ。 このシークエンスはもういくつもの言葉を重ねても足りないが、糸子の、 「ウチは宝抱えて生きていくよって」 の直後、千代が集まったみんなをしあわせそうに舐めたあとに木之元と木岡の両おっちゃんの合間から立ち現れるというのが素敵すぎる。 そしてさらに、一所懸命に二階に上がった千代が善作に並んだとたんに、また楽しげなみんなの映像を一瞬挟むとか、もうね、どうしたものかと。 (そういえば今回の冒頭の「いつもの年寄り組は神社のお参りを済ませたら善ちゃんに報告に来て」とか、善作はいわゆる「アナログハブ」だったんだろうな。「〜作」の運命かねw) 先述のように善作といえば“殴る”(とか、ケーキをひっくり返すとか)が目立ったわけだけれども、同じ殴るにしても思いがこもった場合もあれば理不尽な場合もあった。 そこが『カーネーション』の凄いトコで、くどいようだが殴るをして単にドメスティックバイオレンスということに落とすのはいかがかというハナシだ。多様性を丁寧に描いてきたこと。 そして結婚前/結婚後の善作がどうした行動に出ようが——時に揺れるにせよ——彼のことを好きで好きでしょうがなかった千代。“大お嬢様”が、駆け落ちをした意味。それをまた、千代自身の“言葉”や“主張”ではなくて、都度の場面で描くことの『カーネーション』の素晴しさ。 そしてクライマックスを幻想か実際か知らないが、“見える”で描くこと。 『スター・ウォーズ ジェダイの帰還』のラスト、オビ=ワンやヨーダやアナキンが“見える”に勝とも劣らない映像。 19世紀末のベルギー象徴派ジャン・デルヴィルの絵画に『魂の愛(The Love of Souls)』というのがあるだけれど、まさにそれを感じた次第。 ところで「勝とも」といえば(笑)、“夏木糸子”に変わる直前に“オノマチ糸子”が前にするミシンもまた気になるところ。 「STINGER」のロゴが見られないので、場所が二階ということもあり、糸子のミシンではなくて、かの勝さんや周防が使ったミシンではないだろうか。 だとしたらここにも、糸子が愛した者たち、“オノマチ糸子オールスターズ”を感じるわけだ。 あ、あと、“オノマチ糸子”のラストのアップ直前、ゆっくりとカメラが上に上がっていくトコで、 「お誂え専門」 という文字だけ映したのも凄いなあと思った次第。 さてとまれこの127話は、本当に「オノマチ糸子の最終回」として相応しかった。 脚本、演出、その他すべてのスタッフとキャストが、オノマチ糸子への敬意をここに集中させたのだろうな。 そして—— ここまでの時代が美しく纏めあげられ、次代へと繋がっていく。 “夏木マリ糸子”もまた、今回のラストと予告編を観る限りは十分以上に期待できそうだ。 来週弥生3月いっぱい、またワクワクしながら期待したいと思う。 つか、「大最終回」では『三人の糸子のうた』を聴きたいなあ。 PR |
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