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武蔵野独り暮らし、日々雑感。
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 連続テレビ小説『カーネーション』。“尾野真千子版糸子”が、きょうで終わった。
 いま、5回目を鑑賞しながら、このエントリを綴っている。

 いつもにも増しての、いわゆる「神回」。
 この国は、いまこういうときだからこその、素晴しいドラマを得たと心から思う。

 まずは尾野真千子さん、本当にお疲れさまでした。空前のヒロイン像を見事演じきったことに、感服しまた感謝いたします。

 さて——

 一部のすでに鬼籍に入った人々を除く劇中のオールスター総登場ともいえる“もうひとつの最終回”。
 それを初回と同じく——しかし夜の——だんじり祭りから始めるあたりがまず、このドラマに通底するリフレインの妙。そして相変わらずの、みんなそれぞれのがちゃがちゃ感(笑)。こういうのが、上手いなあと思うわけだ。
 そしてしれっと「チビはもう増えすぎて、どれが誰の子ぉやらわかりせん」というナレーションを挟むw いやー、たまりませんな。
(後述するがこれがまた、クライマックスに繋がる)

 そして導入部としてのがちゃがちゃのあとに千代お母ちゃんのいよいよ危険が危ないという場面で視聴者を不安にさせ、しかし恵さんのやさしくきっぱりとした言葉でぐっとさせる……と思いきや、さらに直後に同じく恵さんの奇声と女走りですぱーんと笑かせられるwww
 いやもうね、脚本、演出、そして演技等々に、いいように踊らされている俺たちファン(^_^;)

 ところでこの『カーネーション』の魅力というのは、まさに上記シークエンスに表れているのではないかと俺なんか思うわけだ。

 例えばいよいよヨイヨイになっている木之元や木岡のおっちゃんなども含め、あえて——カーネーション風に乱暴にいえば——老人ボケというやつは、「老いのかなしみ」があると同時にまた、まさに「ボケ」ではないが或る種の可笑しさも伴うものだ。千代お母ちゃんを思わず怒鳴ってしまった糸子のように老人ボケに対して怒ったり悲しんだりすることもあるが、あまりにも突拍子もない言説・行動に対して吹きだしてしまうこともある。
 つまり、「苦笑い」とか「泣笑い」とかいうやつ。
 苦しみだけでも泣きだけでもなく、そこにまた笑いもあるということ。

『カーネーション』が素晴しいのは、こうした“どちらともつかず”が常に描かれてきたことだと思うのだ。
 表裏一体とか、両側面というか、間《あいだ》とかいったもの。人や、物事や、歴史的事実とか、そういったものに対して、二元的とか、一面的に描かれてはけっしていない。

 視聴者の各々が自身の来し方を振り返ってみれば歴然だが、ヒトが生きる、生きていくということは、けっしてゼロかイチかとか、勝ち組か負け組かとか、そんなモンでは語れないものだ。
 それが——ことにこの数年、さらにいえばネット上でのやりとりなどにおいて——どうにも是か非かばかりの短絡的な言説や価値判断が目立つ。
 まさに今週の『カーネーション』の前半における病床の玉枝さんの台詞等々においてもネット上において、やれ自虐史観だのといった“祭り”になったことは記憶に新しいわけだが、いやいやいやいや、『カーネーション』ってのはそういう論争云々に落としてオシマイってなことを描いてきた作品ではないでしょうということ。

 夢と理想と現実と。成功と失敗と。思い通りにいかないことたち。その、振り子の加減。
 それを、丁寧に。

 後述というかいうまでもなく今回の大クライマックスは善作お父ちゃんが「(回想)」でも「(写真)」でもなく再登場したことにあるわけだが、その善作にしてもドラマ当初は或る判断基準にのみ固執するかたがたにとってはドメスティックバイオレンスばかりがカンに障ったらしくさんざん批判されたわけだけれども、いまや善作無しでは夜も日も明けないほどの大ファンを獲得している。
 そういうことだろう。
 
 勝てばいい、売れればいい、繁栄すればいい、否定すればいい、批判すればいい、品行方正で爽やかであればいい(笑)、等々……何かこう、くどいようだが是か非かとかイチかゼロとかそうした判断ばかりできた、ことに近現代史に対しての、渡辺あやの、静かな、力強い“思い”を感じるわけだ。

 さてそしてまたきょう糸子は「岸和田で生きていく」を北村に対し宣言したのだけれども、この言葉に到るまでの五軒町やその周辺の人々とその関わりを丁寧に描いてきたからこその力強さがある。
「どれが誰の子ぉか〜」という台詞は、糸子が根源的に“岸和田の人”“地の人”であることの表出だろうと思う。
 かの東北の被災者のかたがたにおいても先述のようにゼロかイチかだけで考えれば、極端ないいかたをすれば「とっとと故郷を捨てて別天地で頑張ればいいんじゃない?」ってのが、短絡的にいえばそうなるかと思う。
 が、もちろんそうではないわけで、そうしたことがじりじりと視聴者の潜在意識(イドの怪物©『禁断の惑星』)にうったえるわけだ。こういうところが、『カーネーション』は上手い。

 そして北村との別れ。
 20年以上、ほとんど半同棲というか疑似夫婦——優子、直子、聡子にとっては父親——だった北村。
 が、その北村は、ここに来て、いわば“グローバル・スタンダードへの勝負”をしようとしているわけで、その思考/指向は、いかにも野郎っぽい(♂にはそうした性癖があるもんだ)。そしてそうした北村に対し、“地に生きる”を選んだ糸子。
 ここがまた、見事というしかない。
 さらに北村はいわば“人生最後の大勝負”を指向しつつ、この先は“独り”になる糸子に対して精一杯の思いやりを見せる。
 男として。
 ホンモノの野郎として、ご婦人に対しての、精一杯の思いやりを以て。
 素晴しいなあ。
『カサブランカ』『ラ・マンチャの男』『ルパン三世 カリオストロの城』『シラノ・ド・ベルジュラック』に匹敵する、野郎のダンディズムここに極まれりだ。
 そして糸子に一蹴されるトコがまた(笑)。これぞ、泣笑いだ。
 ほっしゃん。 @hosshyan も本当に、お疲れさまでした(T^T)

 さて、大クライマックスについて。

 先述のようにほぼスターたち登場の場面において、千代と善作を描くのは大反則(ToT)
 これもまた、直前に到るまで千代お母ちゃんを丁寧に描いてきたことの勝利だ。

 このシークエンスはもういくつもの言葉を重ねても足りないが、糸子の、
「ウチは宝抱えて生きていくよって」
 の直後、千代が集まったみんなをしあわせそうに舐めたあとに木之元と木岡の両おっちゃんの合間から立ち現れるというのが素敵すぎる。
 そしてさらに、一所懸命に二階に上がった千代が善作に並んだとたんに、また楽しげなみんなの映像を一瞬挟むとか、もうね、どうしたものかと。
(そういえば今回の冒頭の「いつもの年寄り組は神社のお参りを済ませたら善ちゃんに報告に来て」とか、善作はいわゆる「アナログハブ」だったんだろうな。「〜作」の運命かねw)

 先述のように善作といえば“殴る”(とか、ケーキをひっくり返すとか)が目立ったわけだけれども、同じ殴るにしても思いがこもった場合もあれば理不尽な場合もあった。
 そこが『カーネーション』の凄いトコで、くどいようだが殴るをして単にドメスティックバイオレンスということに落とすのはいかがかというハナシだ。多様性を丁寧に描いてきたこと。

 そして結婚前/結婚後の善作がどうした行動に出ようが——時に揺れるにせよ——彼のことを好きで好きでしょうがなかった千代。“大お嬢様”が、駆け落ちをした意味。それをまた、千代自身の“言葉”や“主張”ではなくて、都度の場面で描くことの『カーネーション』の素晴しさ。
 そしてクライマックスを幻想か実際か知らないが、“見える”で描くこと。
『スター・ウォーズ ジェダイの帰還』のラスト、オビ=ワンやヨーダやアナキンが“見える”に勝とも劣らない映像。
 19世紀末のベルギー象徴派ジャン・デルヴィルの絵画に『魂の愛(The Love of Souls)』というのがあるだけれど、まさにそれを感じた次第。
 
 ところで「勝とも」といえば(笑)、“夏木糸子”に変わる直前に“オノマチ糸子”が前にするミシンもまた気になるところ。
「STINGER」のロゴが見られないので、場所が二階ということもあり、糸子のミシンではなくて、かの勝さんや周防が使ったミシンではないだろうか。
 だとしたらここにも、糸子が愛した者たち、“オノマチ糸子オールスターズ”を感じるわけだ。

 あ、あと、“オノマチ糸子”のラストのアップ直前、ゆっくりとカメラが上に上がっていくトコで、
「お誂え専門」
 という文字だけ映したのも凄いなあと思った次第。

 さてとまれこの127話は、本当に「オノマチ糸子の最終回」として相応しかった。

 脚本、演出、その他すべてのスタッフとキャストが、オノマチ糸子への敬意をここに集中させたのだろうな。

 そして——
 ここまでの時代が美しく纏めあげられ、次代へと繋がっていく。

“夏木マリ糸子”もまた、今回のラストと予告編を観る限りは十分以上に期待できそうだ。

 来週弥生3月いっぱい、またワクワクしながら期待したいと思う。

 つか、「大最終回」では『三人の糸子のうた』を聴きたいなあ。

拍手[22回]

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 4回シリーズで放送中の、表題のNHKスペシャルがとても面白い。

 文字通り我ら「ホモ・サピエンス」が他の生物(ネアンデルタール人等の生物学的近隣種も含んで)と違い、何をして“現代の我々に到っているのか”を検証する、そんな番組。

 ま、斜めに見るといかにも——ことに演出技法として『NHKスペシャル』的な——短絡や感動を導くような、恣意的で小賢しいモンも無くはないのだが、俺個人としてそういうのは大好きなので(笑)、まんまと感動しているわけだ。
(ほら、スペシャリストじゃないけどゼネラリストだから俺w)

 で、この「ヒューマン」がどうして俺をして感動させるかといえば、ヒト=ホモ・サピエンスとその20万年の歴史を多方面・多角的にとらまえて、専門分野のぐいぐいとしたアプローチを紹介し、かつ全体として俯瞰的に分析していて、かつわかりやすく表現しているから。

 こういうの、すごく好きなんだよね。

 かなり蛇足で、かつ昔からの俺のファン(笑)のかたにはミミタコのハナシをちょっと——

 俺はいまや色んな側面において歴史に詳しく、かつ、そのことを多角的に考え言葉に乗せられる人だと自負しているのだが—— 実質的には @buraroman の実散歩の中での俺の“喋り”に表れてると思う——そのきっかけとなったひとつの番組があった。
『46億年の100大ニュース』
 1991年だか1992だか。フジテレビ(CX)系列の深夜枠で古舘伊知郎をナビゲータとして放送された6時間にわたるスペシャル番組だったのだが、これがもう本当に凄かった。
 当時バブルの最後期で——いまから思うと慶長とか元禄とかそして文化/文政に似てるのかもだが——無尽蔵の経済繁栄の中で生まれた番組だが、俺がまず震えたのはそのコンセプト。
 いわゆる教科書上で教わる歴史ではなく、
「“放送当時”のぼくら(笑)に最も影響を与えてる地球史の事件は何?」
 というもの。
 多細胞生物誕生とか酸素系生物とか農業の発明とか貨幣の発明とかバビロンの捕囚とか平均率とかなぜネクタイを締めるのかとかハワイがなぜいまハワイなのかとか第一京浜はなぜ生まれたのかとか……それが色んな表現で——ニュース方式だったりバラエティだったりクイズ番組だったり、トレンディドラマ(笑)だったりで紹介されていたのがまず凄かった。
 ことに俺が目を見開いたのが、当時のフジテレビの女性アナウンサが、下北沢のそう広くない道路の真ん中に立って、
「私はいま、歴史的場所に立っています」
 というパロディニュース。
 西にマクドナルド、東に韓国焼肉屋。
 つまり“人類史上最大の帝国”と言われるチンギスとかフビライとかの侵略が西周りでは東欧にまで達し、「生肉を喰らうのはドイツのハンブルグではそのまま食すのはやだなー。だから火を通そう……ハンブルグ風ステーキ……ハンバーグ」で、東としては元寇とか含め「生肉タタキ食文化」が伝わったと。
 蛇足ながら、ハンバーグもユッケも、原初は同じってハナシ。
 俺、この番組で西廻りと東廻りの食文化の同一性を知り、ウロコがぽろぽろ堕ちたもんだ。

 閑話休題。

 この、『46億年100大ニュース』に類する感動を、俺はこの『ヒューマン なぜ人間になれたのか』 に感じるわけだ。

 兎にも角も、“視点が多角的”。凄く、大事。

 先般、『ヒューマン なぜ人間になれたのか』第1回の再放送を観る機会を得、今宵また第3回を観たのだが、本当に、上記『46億年100大ニュース』に匹敵する、人生観を変えそうかもと思ったシークエンスがあった……

 ……なのだけれども、知力・体力的にその“凄く大事なこと”を、いまこの状態でロジカルに言葉にする体力も知力もないな(笑)
 もとよりそのことを語りたいと思って綴ったエントリなのだけれども、まあいいや。とどのつまり「人、生きる。」だもの。

 この続きは、キンキンケロンパに。

♪重いコンダラ 試練の道を(中略)ドンとイケ、ヒト。
(細心の注意を以て)



 このエントリは、ちゃんと補完したいね。

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 こ、これは凄いな……

 次女・直子の覚醒と神戸の家含む千代お母ちゃん(おばあちゃん)の魅力再確認全開の木、金曜回だったわけだが、この土曜に来て長女・優子をこういう風に描くとは、まったく予想だにしなかった。

 優子はこれまでいわば“嫌な子”、昨今の言いかたをすれば“痛いヤツ”として描かれて来た。優等生でそつなくありたいがための、結果としてのいわゆる「自己中」。そしてきょうも自己中全開でとどのつまり事無きを得たが妊婦のお客様を危険に晒してしまったわけだけれども、その前後含め「優子は駄目な子」という一方的なレッテルで終わらないところが素晴しい。

 カーネーション節、炸裂。

 ちゃあんと優子に仕事をまかせる母親/師匠スタンスの糸子とか事件後の昌ちゃんや恵さんのフォローとか、しかし良かったねで終わらせないところとか……いやまったくこういう作品はそうそう無いのではないだろうか。
(サックドレスや東京弁のハナシ含め、ちゃあんと吸収してるのもいい)

 俺は、俺自身がおっちょこちょいな人生を送ってきたこともあるのだが、ことに最近、一方通行的なそして単視点からの価値観とか行動とかで物事を評価しちゃあかんなあと思いはじめている。ここに来て(笑)
 それが言い訳になってはいけないのだけれど、「人、生きる。」においては現実と理想とかの間の中で、色々とのたうちまわるものだ。何が是で何が非なのかなんて、本っ当にわからない。

 モデルとなった実話はどうあれ、『カーネーション』は理想と現実との闘い——そして最終的に理想が勝つを描いているところが本当に素晴しいと思う。細心の丁寧さをもって。

 八方美人でそつの無い、しかし自身の美意識に妥協のない優子のスタンスは、俺は痛いほどにわかる。人気者はつらいんだよ(笑)。つか、そういうもんをたかが15分の中できっちり描ききる渡辺あや脚本ってホントマジ凄い。

 優子、頑張れ!!
(直子も聡子も、そして糸子も)

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 本放送は外勤め中だったのでちゃんと観られなかったNHKスペシャル、
『ヒューマン なぜ人間になれたのか▽第2集 グレートジャーニーの果てに』(→)
 の再放送をいま観ている。

 無っ茶苦茶、面白いこれ!!

 現在のところ学術上は別種とされている我らホモ・サピエンスとネアンデルタール人との、それぞれの繁栄と滅亡との理由を道具——ことに「投擲具の発明」の有無という点からはじめて発展的に検証しているのだが、なるほどなあと思うことしきりだ。

 単なる狩猟の優位性というところから、ヒトとしての集団社会の維持と精神的な抑止力にも至る……いうまでもなく現代のICBM(大陸間弾道ミサイル)やSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)といった“究極の投擲具”などにも通じるものが語られている。
 同番組内のコーヒーサーバの実験も含め、いわば、
「恐怖・威圧で支配されること」
 を選んだが故にホモ・サピエンスは発展したかもしれないという投げかけ。

 また、武器の開発を始めとしてネアンデルタール人が少数人で集まって云々しているだけでとどのつまりそこで終わってしまったのに対し、ホモ・サピエンスは分散する大人数が互いにアイデアを出し合い、そしてまずは試してみて上手くいったものを各々が真似たから発展があった——すなわち、ネットワーク——という切り口もとてもいい。

 こういうの、凄く好きだ。

 次回の第三集では、俺にいわせれば“人類史初の環境破壊”たる「農耕」を取り上げるそうだ。

 どのように驚かせてくれるのか、楽しみな番組である。



 ……というわけで、『ブラタモリ▽国分寺 遺跡編』再放送なう。 

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 いやー、長かったっすね。

 今週の『カーネーション』(^^;)

 糸子のモデルとなった小篠綾子さんの“もにょもにょエピソード”はドラマ放送開始直後に原作本を読んで知っていたものの、本作には珍しく何かこう歯切れが悪い展開で、正直なところ某善作……ちゃうちゃう、前作の轍を踏まないかとちょっと——いや、ちょっとだけョ——ドキドキしてたのだけど……

 さすがの渡辺あや脚本、見事な締め!!
(伏線含む)

 細かく記しだすとキリがないのだが、あえてとどのつまりの素晴しさを俺なりに綴っちゃうと——
 徹頭徹尾、“糸子の剛腕ぶり”と“周防のへたれっぷり”を貫いた点
(苦笑《ニガワライ》
 ——はもう、ホントお見事!!

 まあ何ちゅうかですねえ、俺がいうのもナンだけど、“ああいうシチュエーション(笑)”になると、野郎ってなぁ互いの年齢とか立場とか収入とか関係なく、たいがいが甘ったれ助になるもんです。(←をや?w)
 で、意外と——それをおくびにも出さず——打算的でみみっちい。(←をやをや??ww)
 さらにいえばご婦人が年齢等々関係なく潜在的に持つところの乙女心的ななんかもくすぐるのが——本人が気づいている/いないに関わらず——巧かったりしたりしてですねえ……(←をやをやをや???www)

 で、かてて加えて本作では糸子が何よりも仕事熱心で、ともかく稼ぐ。
 そしてかつ、
「死んでしまいました」
 に代表される彼女の心の奥深くにある穴。
(蛇足ながらあの台詞には具体的に詰問されたお父ちゃんや勝さんだけではなく、勘助や泰蔵兄ちゃんへの想いもあったに思う。だから合間に或る種の逆説でもあるところの奈津の結婚エピソードも挟まれたのだろう)
 そりゃ——意識する/しないに関わらず——つけこみますよ(笑)

 だからきょうのクライマックス回において周防が、
“イケメンでやさしいけど、とどのつまりダメンズ”
 として描かれたのは、さすが『カーネーション』だと思う次第。
(北村や組合長のダメンズっぷりもをや)

 あらためて考えると、本作は主人公の幼少時代から、「男社会・男的価値観が強かった時代」をどう超えるか/超えてきたかを——時に野郎どものへたれっぷりを愛しつつ——描いてるわけで、いやあ、ブレてないなと。

 また同時にダメンズたちばかりでなく糸子(ご婦人)の側にも考えにゃならんトコは多々あるわけで、その辺りのフラットさもまたいい。
(史実には描かれていない恵さんのキャラなんかは、緩衝材・乳化剤として生み出されたのだろう)

「ダメだこりゃ©いかりや」がわかっていながらもずるずるとなる人の心とか営みとか、そうした辺りを丁寧に描いているからこそ、本作は大上段に女性上位を口角泡を飛ばして語ったり、某文教・お受験区(笑)に実在する『男女平等センター』なる滑稽な施設よりも、もっともっと次元が高く説得力があるなあと。
 
 観る側が色々と考えるところが本作品の最大の魅力。

 戦争という個人ではどうしようもない外的暴力よりも或る意味でもっと難しい己《オノレ》の心と愛の闘いを超えた糸子が、来週以降またどうなっていくのか、とても楽しみだ。

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