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武蔵野独り暮らし、日々雑感。
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 以下は例によって(笑)、かつてmixi日記に綴ったものです。

 昨年に野毛やら横濱橋通商店街やらの横浜下町を発見するずっと前の2005年05月29日のものですが、きょう現在このことはぼく自身あらためて反芻しておくべきだと考え、ここに再掲するものです。

 あと、再掲ついでにいえば当時は『帰ってきたウルトラマン』が放送されていた頃であったんですね。
 ウルトラな皆さんにはお解りいただけるように、かのウルトラマンは歴代の彼らの中でも最も「夕日が似合うウルトラマン」だったりするわけで、このこともぼくの中で激烈に心に残っているものです。三ツ境の駅前で買ったマットアローのプラモなんかは、見事に当時と思い出としてリンクしてますね。

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「ハマ育ち」である。

 とはいっても横浜に居たのは僅か二ヶ月。しかも横浜とは名ばかりの、東京の世田谷区(せたがやく)と間違えられてばかりの瀬谷区(せやく)である。「三ツ境(みつきょう)」という場所である。
 重度の喘息児であったぼくは、その三ツ境にあった「二ツ橋学園(ふたつばしがくえん)」という喘息児ばかり集めた全寮制の学校に入れられたのである。
 小学三年生の、三学期。

 そのこととはまったく別に、この5月に入ってから「潮風に吹かれなければ死んでしまうかもしれない病」にかかっていたぼくは、今週末は横浜とか湘南方面に出かけようと決めていた。海を見に。なので昨日土曜日午後、重度の二日酔いを圧して八王子回りで横浜に向かった。
 その途上、不意に二ツ橋学園を見たいと思ったのである。

 横浜駅から相鉄線に乗り換え三ツ境駅に。駅と駅前はすっかり変わっていたが、空気は往時と近い。少年ですらわかる“あの”ハマ独自の空気。

 二ツ橋学園はすでになく、「神奈川県立養護学校」と「アレルギーセンター」とやらに変わっていた。場所も駅前すぐにあった場所から移設して、かなり歩かなければならない。
 でも、甦るものはある。

 いみじくも今回訪ったのは落日直前。そしてぼくの中の30年以上前の二ツ橋学園のビジュアル・イメージも、やっぱり夕景。「帰ってきたウルトラマン」に通ずるもの。
 いろいろなものが、奔流のように。

 昭和40年代の全寮制の学校では、講堂で見るTV番組のチャンネル権も、児童たちの投票で決められていた。
 日曜夜7時半から何を見るか。
「新ムーミン」と先生がいったときに、ぼくは元気いっぱいに手を挙げたのだが、他に誰もいない。「ゑ゛!?」っという衝撃が、ムーミンはあたりまえだと思っていたぼくを襲った。
 次に先生がいった番組名が「ルパン三世」。講堂を埋め尽くす挙手。
 それ、何? 見たくねえよ、そんな知らない番組。
 それから半月後、ムーミンが見られないことにスねていたぼくに「伊作ちゃん、ルパンってすごいよ。見たほうがいいよ」って教えてくれた同じ部屋の佐藤くん。シブシブ見にいって、以来「旧作ルパン」には人生を支配されている。第14話「エメラルドの秘密」。すべてはあそこからはじまった。
(皆さんご存知のように、旧作ルパンの本放送は視聴率不振で打ち切られている。にもかかわらず当時のハマの連中は……ってハナシ)

 そしてまた「札幌五輪」も「あさま山荘事件」も「ダブルライダー」も、みんなハマの二ヶ月間で見た。思春期の帳(とばり)の9歳の少年が見るには、あまりにも影響力の大きいものたち。ましてすぐに友だちがいっぱいでき、面会日には誰より多くの友だちが来たものの、でも「全寮制」というシチュエーションの中にいる少年が云々。

 閑話休題。

 ひさびさにその記憶をたどって、ぼくはやっぱり「ハマっ子」だと思った。
 生粋のかたたちには怒られそうだが、あの、独特の、東京をしてイナカッペという感覚を最も多感なときに体感したことは、ものすごく大きい。
「かっこよく生きなければいけない」
 ってのを楔(くさび)のように植え付けられた、あの季節。

 そんなことを感慨深く考えながら、でもとどのつまりは中華街で美味いものを鱈腹喰らって帰ってきましたとさ(笑)

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※※
 以下は2006年08月19日に、夏休みスペシャルとしてmixi日記に連載として綴ったものです。
 最近Twitterで知りあい懇意とさせていただいているかたより「ぜひ読みたい」とのリクエストをいただいたため、ここに再掲するものです。全7回の最終回です。
 原文ママのため、誤字脱字もそのままとします。

◎第1巻「輝ける10年間」(→)
◎第2巻「カギっ子を包むものたち」(→)
◎第3巻「団地商店街」(→)
◎第4巻「駄菓子屋讃歌」(→)
◎第5巻「露天商とぼく」(→)
◎第6巻「麗しき孤独」(→)



 1975(昭和50)年3月に団地の中心部にあった大畑小学校を卒業したぼくは、その4月から足立区立第7中学校に通うことになった。いわゆる越境入学、電車通学の開始である。

 ぼくの進学についておふくろはかなり腐心したようで、5年生の末頃から、いくつかの私立中学が候補に挙がっていたことを記憶している。で、とどのつまりはぼくは中学受験を一切しなかったが、それが足立区の公立中学の中でも最もマイナーな部類の学校に落ち着いたのは、あとで知ったが、当時おふくろと親爺との間がいよいよ末期的な状態となり、ぼくを少しでも身近なところに置いておきたいという、おふくろの心配というか傲慢からだったそうだ。「7中」は、おふくろが5年生6年生の全クラスに専科として図工を教えていた、関原小学校の卒業生ほぼ全員が行く学校であった。

 この特殊な状況下におけるぼくの中学時代の、これまた愉快な物語の数々についてもいずれ記すこともあろうが、それはともかくまずこのことが、いまから思えばぼくの武里団地物語の、「エピローグのはじまり」であったのだろう。

 もちろんややしばらくは、大畑小の級友たちとの交流は続いた。休日に互いの家に行き来するのはそのまま行われていたし、中1の文化祭には同じ6年1組だった「三番目の初恋の相手(笑)」を呼んだりもした。また、学校から帰ってきたぼくを目ざとく見つけた同じ棟のチビたちの「あっ、いさくにいちゃんだ!」の声にこたえて“詰め襟”のまま「なげとばしごっこ」につきあってやったりするのもそのままだった。もちろん月日(とき)の経過とともにそれらはだんだんに希釈されてはいったけれども、それでもぼくンチは、あくまでも「武里団地3の13の505」だった。中学に入ってすぐに仲良くなった連中を大挙呼び寄せたときも、ぼくは誇らしげに、団地やその周辺を案内したものである。

 だがしかし、「節目」は訪れる。

 電車通学をはじめた当初は網棚に荷物を乗せることさえできなかったぼくの身長も、中1から中2にかけて18cm伸びた。中2の夏休みには“チンゲ”も生えそろい、夏休み終わりの日光でのキャンプの最中に突然声が出せなくなったかと思ったら、そのまま低い声となっていまに至る。同じ頃に精通もあった。そうした内なるもの以外にも、団地とはまったく違う関原の人々の生活、授業や本で新たに学んだものといった外的に得たものも多数あり、そうした心身ともに様々なことどもが一気に押し寄せ、分けても“こどもこどもしたこども”だったぼくに「覚悟」を迫った。そしてその決断がまだできていないままに、ぼくは団地からの引っ越しを迎えたように思う。1977(昭和52)年1月、14歳の冬のことである。 

 引っ越しの当日は大人も子供も合わせ、団地内からそれこそ大勢の人が集まってくれた。荷物の梱包や搬送は言うに及ばず、トラックの調達や運転までしてくれ、業者の手を借りたのはピアノの搬送ぐらいではなかったかと記憶している。自家用車の提供も多くされ、引っ越し先での作業のために、ほとんどの人がそれに相乗りして移動してくれた(乗り切れなかった人は電車で移動した)。トラックを先頭に複数台の車が連なるその光景は、周囲からはとても「二人家族」の引っ越しには見えなかったはずだ。

 新築された家に、ぼくはわくわくした。団地から出たさびしさはなかった。むしろこれまでの数年に、団地から引っ越して行った友だちらに、やっと追いついた気がした。新しく提供された自分の部屋のドアに、ぼくはさっそく「探検」で見つけたスーパーで買ってきた「社長室」というプレートを貼った。

 引っ越しの荷物がほぼ片づいたある日、おふくろが「おかしい」といいだした。段ボールがひとつないというのだ。たったひとつだけどうしても見つからないその箱には、ぼくが小学校の1年から6年まで毎夏休みに1日と欠かさず書いていた日記や、学童保育所のクリスマス会のためにぼくが物語を作り絵も描いた紙芝居などが入っていた。おふくろは八方手を尽くしたが、その、まごうかたなき「団地の想い出」は、ついに見つかることがなかった。

「男の子」が「男」になっていく変化は、女性のそれに比較して、おしなべて暴力的なものだとぼくは思っている。そして男子は、自分の内側からのその「青い春」と激烈な戦いを展開し、大きくなっていく。男親にとってそれは「来し方」であるので理解もされようというものだが、女親にとってはまさに「変身」にしか見えないのではないか。そしてごく近しいところにそのことを相談する相手のいない母親、「坊や」に対して過剰なまでの愛情を注いできた母親にとっては、特に辛いことだろうとぼくは思う。引っ越しをしてほどなくして1対1の母子は強烈に対立したが、いまこうして考えてみるとあのタイミングで武里団地を喪失したことが、その要素のひとつであったのではないかと思う。ぼくは21歳のときに自ら住み込みの新聞配達のアルバイトを見つけ引き剥がすようにして家を出てそれきりだが、いまだにその、おふくろがいまも住まう、女手一つで建てた野田の家を「実家」と呼ぶことができない。

 話がだいぶ湿っぽくなったが(笑)、しかしいっぽうで、あのタイミングで団地を出たことがよかったとも思える。おかげでいつまでも揺籃に甘んずることなく事物を考えようとする人間になったし、何よりも武里団地を良い印象だけでとらまえることができる。あのまま青年期を団地で迎えていたら、いやな部分もいっぱい見なければならなかったかもしれない。

 そしてその10年間――4歳から14歳までのまさに「少年」の時代に、あんなにも美しい、まさにおひさまの光のようなものをいっぱいいっぱいに浴びながら過ごせたことは、たぶんぼくの長所につながっていることのほうが多いはずだ。いやなことも多い世界だが、それでもやっぱり人は信じられるものである。世界はいつか、ぜったいによくなる。足掻きながらもそれを大前提として、前に進める。だからこそ本当に自身が駄目になりそうなときでも、見守ってくれる人が、助けてくれる人がいる。そうした楽観主義はときに弱点・欠点ともなるが、ぼくは好きだ。武里団地の輝ける10年間の想い出は、ただのノスタルジーではない。ぼくの原動力として常に胸の奥にある、「ひとつなぎの財宝」なのだ。

 そして永遠の少年のぼくは(笑)、あした44歳の誕生日を迎える。

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※※
 以下は2006年08月17日に、夏休みスペシャルとしてmixi日記に連載として綴ったものです。
 最近Twitterで知りあい懇意とさせていただいているかたより「ぜひ読みたい」とのリクエストをいただいたため、ここに再掲するものです。全7回の6回目です。
 原文ママのため、誤字脱字もそのままとします。

◎第1巻「輝ける10年間」(→)
◎第2巻「カギっ子を包むものたち」(→)
◎第3巻「団地商店街」(→)
◎第4巻「駄菓子屋讃歌」(→)
◎第5巻「露天商とぼく」(→)



 一人っ子は、暇を持て余すということがない。

 という話をとあるご婦人としたことがある。彼女も一人っ子、ぼくも一人っ子。幼少の頃から独りであることがあたりまえで、静かに、独り遊びの楽しみを見つけることが癖づいているため、たとえば何のアイテムも持たずに独り長時間電車に乗っていたりしても、何か楽しみを見つけて厭きることがない――といった話だ。もちろんだから一人っ子がいいとかいう話ではなく、一人っ子にはむしろ弱点のほうが多いと当事者としてぼく個人は思うが、「でも、そういうものだよね」と、兄弟姉妹をそれぞれ自身の子供として育てた経験もある彼女とぼくとは、その子育て中の観察も踏まえて比較しながら、大いにうなずきあったものである。「孤独が苦にならないよね」と。

 そしてぼくにとって「武里団地」での暮らしは、それをよりいっそう強くインプリンティングされた空間でもあった。「孤独を楽しめる」ことを。

 これまでにもさんざん記したように、ことに武里団地時代、母子家庭に育ちながらもたくさんのともだちに恵まれ、たくさんのおとなたちからの愛情をたっぷりと浴びて育ったぼくは、けっして孤独な少年ではなかった(そしてそれはおそらく、時代や空間が生み出した、一種の奇跡だったのであろうということも記した)。が、いっぽうで玄関扉ひとつ閉めてしまえば外部と隔絶される団地の構造、そしてウチはその最上階である5階であったということは、好むと好まざるとに関わらず、物理的に孤独をいや増したはずである。

 そこは、静かな空間であった。

 また、ぼくは物心ついたときから「ぜんそく」があったため、数ヶ月に一度学校を休んだ。おふくろは勤務で不在、いやおうなしに独りの昼間である。そんなときぼくはむさぼるように物語を読み、図鑑を眺め、絵を描き、テレビを観、音楽を聴いた(おふくろの仕事の関係で、教材に準ずるものはほとんど自由に買ってもらえたのである)。そしてときに5階の窓から、ちょうど裏にあった広場で草野球などに興じるともだちたちを眺めた。陽射しに眼を細め、風に身を晒し、雲を追い、雨音に耳を傾け、近くをゆく電車の音に遠くへの憧れを抱いたりしながら。

「ぜんそく児って、自分を見つめることをはじめるのがほかの子供にくらべて早いと思う」というのは上記と同じご婦人の台詞だが(彼女はぜんそく児の母である)、たしかに横になって眠ることもできない発作のときは、そんな感じになる。苦しくて苦しくてしょうがないのだが、同時にいろいろなことを考えるのだ。「死」も含めて。そしてぜんそくというのはそうでない人は年がら年中喘鳴(ぜいめい)があって苦しがっているものだと思っていることが多いが、そうではなく、発作さえ治まるとまったく普通に(場合によってはそれ以上に)元気に飛び回れるようになるのが、多くのぜんそく児の姿なのである。実際ぼくも二三日寝込んだあとはけろっとして、翌日から元気いっぱいに走り回っていた。

 それは自分の意識下に常にある、変化に富んだ「波」のようなものだ。そしてぼくの中では当時の、扉を隔てて「内」と「外」、「計画都市」と「田畑」、「合理性」と「人情」といった対立するもの同士が奇妙に共存していた、これまで語ってきた昭和40年代の武里団地と、奇妙にシンクロしている。

 いずれにせよ悪しき意味での孤独が語られることの多い団地という空間で、孤独までも味方につけ、それを楽しむことまで身につけることができたぼくは、本当にしあわせだったと思う。それはきっと当時の武里団地が、この孤独の向こう側にはやさしいものたちがいっぱいあることを安心して信じていられるようなところだったからなのだろうと思う。

 いまはなき団地内の東武ストアでいつもかかっていて、大好きだった曲。明るさとさびしさの一体感が何ともいえない心地よさを誘う曲。中学になってポピュラー音楽に目覚めたぼくにおふくろが何も考えずに買ってきてくれたオムニバスアルバムではじめてタイトルを知り、大いにうなずいたその曲は、『雨にぬれても』だった。



 ……というわけで次回こそ、完結編(かな?)



 最終回第7巻「SOMEDAY」は近日掲載予定です。

【追記】アップしました。(こちら→)

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※※
 以下は2006年08月13日に、夏休みスペシャルとしてmixi日記に連載として綴ったものです。
 最近Twitterで知りあい懇意とさせていただいているかたより「ぜひ読みたい」とのリクエストをいただいたため、ここに再掲するものです。全7回の5回目です。
 原文ママのため、誤字脱字もそのままとします。

◎第1巻「輝ける10年間」(→)
◎第2巻「カギっ子を包むものたち」(→)
◎第3巻「団地商店街」(→)
◎第4巻「駄菓子屋讃歌」(→)



 荒俣宏の『帝都物語』、星野之宣の『ヤマタイカ』、宮崎駿の『もののけ姫』……など、1980年代後半より、この国のいわゆる「正史」ではない部分、陰に隠れた部分に注目した作品が続出し、同様のテーマはいまも根強い人気を得ている。それについての論考はまた稿を譲るが、これらの諸作におそらく大きな影響を与えたと思われるものに、1985年初版発行のカッパ・サイエンス(光文社)『鬼がつくった国・日本』という名著がある。副題は、「歴史を動かしてきた『闇』の力とは」。

 現在では「その筋」ではすっかり有名になった文化人類学者・民俗学者の小松和彦先生と写真家の内藤正敏さんの対談集で、興味のあるかたはぜひ読んでいただきたいと思うのだが、その詳細はともかくとして、この中で取り上げているものたち――ことに「『鬼』のネットワーク」という項を読んだときにぼくが真っ先に思い出したのが、“住宅公団が造った計画都市”であるところの武里団地の外部にへばりつくように在った駄菓子屋と(前回参照)、団地の外部から来て内部のそこここに出没し、少年のぼくの心をとらえて止まなかった「露天商のおじさんたち」であった。

 事前にことわっておくと、ここでいう露天商とは、お祭り(団地まつり)などのときに店を連ねる、よくある「たかまち」の人々のことではない。大きく括れば彼らも同じところに入るのかもしれないが、そうした子供心にも組織されたように見えたものではなく、(表向き)個人経営のように見える――もっといえば「さすらい人」のように見えた人々である。彼らはいつもぼくの日常の中に忽然と現れ、夜の帳とともに去っていった。

 印象に残っているもののうちひとつは、中央集会所の前、ぼくンチからの団地商店街への入口のスロープの前に時折出ていた、地面にゴザを引いただけの露店。やって来るおじさんは毎度違い(と、記憶している)、相互に関係があったのかは知らない。扱う商品といえば怪しげなおもちゃや手品、それにヒヨコなど。そしてその場所はずばりぼくの通学路であり、それはあたかも、ぼくのような阿呆な少年を待ちかまえる罠であった。

 多くの少年・少女がまずこの罠にかかったが、それぞれさまざまな理由でとどのつまりはスルーしていたと思う。ぼくも多くの場合は小遣い銭と相談して泪をのんだはずだが、しかしどうしてもヒヨコを飼ってみたかったり、手品のタネを知りたくて死んでしまう病にかかることも少なくなかった(笑)。そんなときぼくはややしばらく物欲しそうな表情(かお)で滞在し会話をしたあと、おずおずとおじさんに「お手伝いさせてくれる」ことを願い出たものだ。ようするにアルバイト、報酬としてヒヨコやおもちゃをもらおうという魂胆である。そして多くの場合、おじさんは首を横に振ることはなかった。

 もうそうなると天下を取った気分である。ぼくはヒヨコが育って卵を産むところや、「お楽しみ会」で手品を演じ喝采を浴びる場面などを夢想しながら息急き切って家に帰り、ランドセルを投げ出すと、張り切って取って返した。そしていかにもおじさんの「関係者」であるような顔をして、ほかのこどもたちを相手に「いらっしゃい、いらっしゃい!」とやった。級友などが通りがかろうものなら、もう得意満面である。「お客さ~ん、30円じゃ足りないねえ」などとおとな言葉を真似したりして、悦に入っていた。

 報酬は得られるときもあれば、得られないときもあったやに記憶している。つまるところ、あんまり「憶えていない」のだ(笑)。ようするに終わってみれば報酬などはどうでもよく、なんとなく「ちょいワル(ぷっ!)」な気分で怪しげなおじさんを手伝い、かつおとなっぽい真似事をする行為がうれしかったのだろう。このことはぼくの中で鮮烈な印象として残っている。だからぼくは、娘たちが乳飲み子のときに預けていた共同保育所のバザーのときも、いつも「おもちゃのオヤジ」をさせてもらい、やって来るガキどもを大いに手伝わせた。それとてももう20年近くも前の話だが、彼ら少年たちの活き活きとした表情を見て、心から安堵したものである。

 閑話休題。もうひとつは、カンケリやケイドロなどの主な舞台となった、東集会所の下によく来ていた「やきとりのおじさん」である。こちらはぼくが高学年になった頃から、毎日のように出店していた。メニューは「とり」と「レバー」のみ(味付けももちろんタレのみ!)。半畳ほどの大きさの「焼き場」だけの、屋根も何もない店だったと思う。

 1本たしか20円。倍の値段の団地商店街の肉屋の焼き鳥より格段に美味かった。すでにおふくろの財布から100円玉をちょろまかすことを覚えていたぼくは(笑)これを大いに喰らい、おじさんに「財閥」というあだ名を付けられた。当時はよくわからなかったが、後年意味を知って赤面したものである。さぞかし「憎テエなガキだ」ぐらいに思われていたことだろうが、おじさんはいつもやさしかった。ここでも時折、お店を手伝わせてもらった。

「東集会所」というのは団地商店街からはかなり離れ、もう100メートルほど南に行くと団地が途絶する場所にあった。店は人気で大繁盛、おじさんも主婦連の扱いは上手だったが、いまから思うとそうした場所にバイクひとつで乗りつけ、白衣をまとった満身を夕日で染めながら黙々と焼き鳥を焼き、そして夜の闇の中に去っていくおじさんの姿に、こども心にそこはかとない寂寥感を覚えていたのかもしれない。いつかおじさんの家は何処にあるのか訪ねたことがあるが、「あっちのほうだよ」としか答えてくれなかったように記憶している。

 光あるところに影がある
 まこと栄光の陰に、数知れぬ忍者の姿があった
 命を懸けて歴史を作った影の男達
 だが人よ、名を問うなかれ
 闇に生まれ闇に消える。
 それが、忍者のさだめなのだ

 ご存知、テレビまんが『サスケ』のオープニング・ナレーションである。ぼくは放送当時からいつの間にかこれを諳(そら)んじており、いまでもこうしてググることなく記すことができるが、このことはたぶん、放送(再放送を含む)と同時期に触れ合った露天商のおじさんたちと、無縁ではないように思う。ぼくの心の奥深くに、「正史」では語られないおじさんたちの姿が、いつでもあるのだ。



 というわけで次回は「総集編」……かな?(笑)



 第6巻「麗しき孤独」は近日掲載予定です。

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 以下は2006年08月10日に、夏休みスペシャルとしてmixi日記に連載として綴ったものです。
 最近Twitterで知りあい懇意とさせていただいているかたより「ぜひ読みたい」とのリクエストをいただいたため、ここに再掲するものです。全7回の4回目です。
 原文ママのため、誤字脱字もそのままとします。

◎第1巻「輝ける10年間」(→)
◎第2巻「カギっ子を包むものたち」(→)
◎第3巻「団地商店街」(→)



 未来都市の中に計画的に設(しつら)えられた「団地商店街」が、トラディショナルな「ニッポンの正しい商店街」以上の性格を有するものであり、少年時代のぼくを庇護する場所であったことは、前回記した。そしてそれは一種の奇跡であったのではないかということも、そのコメントの中で記した。まさに、「エデン」である。

 しかし人間……就中少年は、某コンピュータメーカのマークのように(笑)、林檎を齧りたくなるものである。

 それはときにおふくろの本棚にあった『漫画読本』のグラビアだったり、学級文庫に誰やらが持ってきた『ハレンチ学園』であったり、住んでいた棟の焼却炉に捨ててあった『平凡パンチ』であったり、おふくろが熟睡していることを確認してからテレビのボリュームを思い切り絞って観る『11PM』だったりしたわけだが、そうしたあからさまに歯茎ならぬ鼻から血を出すような林檎はともかくとして(ともかくだったのか!)、ぼくの日常の中で、それとまでは明確に意識しないまでも、団地商店街とは違った、どことなく「ちょい悪(ぷぷっ)」な雰囲気を感じながら接していたのが、「駄菓子屋」であり「露天商」であった。

 ぼくとぼくの仲間たちが利用していた駄菓子屋は、全部で3つ。どれも、団地の外にあった。

 うちひとつは駄菓子屋というよりも、普通のお菓子屋さんであったように思う。名前は失念。団地に隣接はしていたが、おそらくは団地ができる前から田畑の中にちょこっとあった五六軒並ぶ商店のひとつで、団地の南端、「千間堀(せんげんぼり)」という団地と他とを分かつ川に面していた。川や田畑で遊ぶときの拠点となる店だったが、肝心の店そのものの記憶はあまりない。が、店の前になぜかカニクイザルを飼うオリがあって、小3の晩秋、その前で団地外の他校の6年生と口喧嘩をして優勢に立った瞬間、そのサルに髪を引っ張られて一気に劣勢になったという苦い記憶がある(笑)。蛇足ながらそのときの口喧嘩のきっかけや内容はよく憶えていないが、「どっちが金持ちか」という馬鹿な論争に到ったときに、ぼくが「ウチにはミンクのコートがある」とでまかせをいったところ、相手が「ウチにはピンクのコートがある」と切り返してきたのにはぎゃふんとなった。さすがイナカモンでも6年生は天晴だと思ったものだ。

 団地の北東部、1街区で遊ぶときに拠点となったのが、団地より約100mはずれた、「武里」駅に至る踏み切りの手前、ドブの上にあった『ラッピー』である。ここが最も駄菓子屋然とした駄菓子屋で、ぼくの中の記憶も濃厚だ。実はミクシィにも「武里団地」コミュがあるのだが、そこで語られることも多い。もちろんいまは無いのだが、面白いのは、コミュのメンバの世代によって、ラッピーは駄菓子屋だけでなく、「魚屋」だったり「ペットショップ」だったりすることだ(笑)。この辺りがいかにも怪しい感じで、実に好ましい。そういえばぼくもラッピーの前にアジの干物が干してあったような気もするし、ハツカネズミのつがいを買ったような気もする。

 マンガ『20世紀少年』のぼくら世代の読者は、そこに登場する駄菓子屋『ジジババ』に「自分の駄菓子屋」を投影するはずだが、ぼくの中でのそれはラッピーである。ことに同マンガで最高に可笑しい場面のひとつに、「こどもたちの社交場であるはずのジジババの横の塀にはなぜかピンク映画のポスターが貼ってあって……」云々というのがあるのだが、ラッピーの横の壁にも『越谷大劇』という隣村(笑)のストリップ劇場のポスターが欠くことなく貼られていて、
「おい『白黒ショー』って何だと思う?」
「そりゃアレじゃないかな、白人と黒人のおねえさんがさ……踊るんだよ」
「踊るってオマエ、どんなカッコだよ」
「はだか……なんじゃないか」
「はだか? ってことは、ボインとかは……」
「そりゃあほら」
「丸出し!?」
「ホントかよ!?」
「やめろよ、チンコ立っちゃうよ」
 といった会話を交わしていた馬鹿な男子のひとりであったぼくにとって、強烈なシンパシーを感じる場面だったりするわけである。

 なお、ラッピーにも「ヨーグル」というヨーグルトの容器を模した“例の”駄菓子屋名物があったわけだが、ある日未開封の箱の中ではそれの「アタリ」が分別されていることを知り、次の箱を勝手に開けアタリばかりを取り、連続して喰らっていたのは、大畑小学校5年1組(昭和48年度)の連中です。ラッピーさんすみません(笑)。ちなみにミクシィで再会したマイミクの「大畑小学校児童会長」によれば、「ラッピー」というのは正式な屋号ではなく、扱っていた商品の名前がそのまま定着してしまい、店主も面倒なのでそのまま使っていたとのこと。何ともおおらかな時代である。なお、児童会長が上記のような会話をしていたかは知らない(笑)

 通った期間は短かったが、ラッピーに伍する想い出があるのが、団地の西のはずれにあった『ほんやマ』である。もしかすると『ホンヤま』だったかもしれないが、どっちが正解かは憶えていない。ただ、最後の「ま」もしくは「マ」だけが、なぜか小さかった。いまもってどうしてなのかは謎だが、これもいかにも駄菓子屋っぽくて好ましい。ここでは「ほんやマ」とする。たぶん、4年生のときだけ通ったと思う。

 ほんやマで扱っていた商品では、登場して数年のカップヌードル……の、パチもんが懐かしい。ジュース用カップサイズで、短い麺が入っていた。店先にこれまた登場したばかりの電動ポットが置いてありお湯は使いたい放題だったので、50円でそのパチもんを買ってそれを喰らってしまうと、カップだけ大事にとっておいて遊び、また空腹を覚えたときにベビースターラーメンを5円だか10円だかで買って入れ、お湯を注いで「おかわり」をしたものだ。

 しかしながらほんやマでの想い出で最高に鮮烈なのは、何といっても「仮面ライダーごっこ」である(待ってました!)。上記、4年生のときだけだったというのも実はこれがためで、ほんやマの目の前に、造成中の周囲の土砂を集めた、いかにもな小山があったのである。ほんやマは実は他校のテリトリにあったのだが、そんなわけで危険を圧して通った。当時はまだ自分の自転車(まだ「チャリンコ」という言葉が団地では一般的ではなかった)を持っている者は少なかったため、いきおい持っているものがライダーの優先権があったのだが、さいわいぼくは持っていたので、いつも2号ライダー一文字隼人を演じていた(一文字が好きだったし、チビだったから)。この日記の「1巻」で語ったように団地の西側は遠く岩槻のほうの地平線に沈む夕日が見えるほどに何もなかったため、ぼくは身を切るように冷たく激く吹きすさぶ「赤城おろし」を全身に受けながらも、その「風の力」をもって全身を夕日の「正義の赤」に染めながら、「へんんんんっしんっっ、とうぉ~っ!!」とやっていたのである。ぼくはいまでも冬の寒風が嫌いではないが、この頃の記憶が支配的にあるのだろうなと思う。

 このテの話になると、つい燃えて長くなってしまう(笑)。いずれにせよ、駄菓子屋すべてが「団地の外」にあったというのが、語りたいことの重要な要素のひとつである。この辺りのことも含めて、露天商のことは次回記したいと思う。

 次回『怪人ロテンヒヨコ、少年取り込み作戦』にご期待ください!(声:中江真司)



 第5巻「露天商とぼく」は近日掲載予定です。

【追記】アップしました。(こちら→)

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