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武蔵野独り暮らし、日々雑感。
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 以下は2006年08月19日に、夏休みスペシャルとしてmixi日記に連載として綴ったものです。
 最近Twitterで知りあい懇意とさせていただいているかたより「ぜひ読みたい」とのリクエストをいただいたため、ここに再掲するものです。全7回の最終回です。
 原文ママのため、誤字脱字もそのままとします。

◎第1巻「輝ける10年間」(→)
◎第2巻「カギっ子を包むものたち」(→)
◎第3巻「団地商店街」(→)
◎第4巻「駄菓子屋讃歌」(→)
◎第5巻「露天商とぼく」(→)
◎第6巻「麗しき孤独」(→)



 1975(昭和50)年3月に団地の中心部にあった大畑小学校を卒業したぼくは、その4月から足立区立第7中学校に通うことになった。いわゆる越境入学、電車通学の開始である。

 ぼくの進学についておふくろはかなり腐心したようで、5年生の末頃から、いくつかの私立中学が候補に挙がっていたことを記憶している。で、とどのつまりはぼくは中学受験を一切しなかったが、それが足立区の公立中学の中でも最もマイナーな部類の学校に落ち着いたのは、あとで知ったが、当時おふくろと親爺との間がいよいよ末期的な状態となり、ぼくを少しでも身近なところに置いておきたいという、おふくろの心配というか傲慢からだったそうだ。「7中」は、おふくろが5年生6年生の全クラスに専科として図工を教えていた、関原小学校の卒業生ほぼ全員が行く学校であった。

 この特殊な状況下におけるぼくの中学時代の、これまた愉快な物語の数々についてもいずれ記すこともあろうが、それはともかくまずこのことが、いまから思えばぼくの武里団地物語の、「エピローグのはじまり」であったのだろう。

 もちろんややしばらくは、大畑小の級友たちとの交流は続いた。休日に互いの家に行き来するのはそのまま行われていたし、中1の文化祭には同じ6年1組だった「三番目の初恋の相手(笑)」を呼んだりもした。また、学校から帰ってきたぼくを目ざとく見つけた同じ棟のチビたちの「あっ、いさくにいちゃんだ!」の声にこたえて“詰め襟”のまま「なげとばしごっこ」につきあってやったりするのもそのままだった。もちろん月日(とき)の経過とともにそれらはだんだんに希釈されてはいったけれども、それでもぼくンチは、あくまでも「武里団地3の13の505」だった。中学に入ってすぐに仲良くなった連中を大挙呼び寄せたときも、ぼくは誇らしげに、団地やその周辺を案内したものである。

 だがしかし、「節目」は訪れる。

 電車通学をはじめた当初は網棚に荷物を乗せることさえできなかったぼくの身長も、中1から中2にかけて18cm伸びた。中2の夏休みには“チンゲ”も生えそろい、夏休み終わりの日光でのキャンプの最中に突然声が出せなくなったかと思ったら、そのまま低い声となっていまに至る。同じ頃に精通もあった。そうした内なるもの以外にも、団地とはまったく違う関原の人々の生活、授業や本で新たに学んだものといった外的に得たものも多数あり、そうした心身ともに様々なことどもが一気に押し寄せ、分けても“こどもこどもしたこども”だったぼくに「覚悟」を迫った。そしてその決断がまだできていないままに、ぼくは団地からの引っ越しを迎えたように思う。1977(昭和52)年1月、14歳の冬のことである。 

 引っ越しの当日は大人も子供も合わせ、団地内からそれこそ大勢の人が集まってくれた。荷物の梱包や搬送は言うに及ばず、トラックの調達や運転までしてくれ、業者の手を借りたのはピアノの搬送ぐらいではなかったかと記憶している。自家用車の提供も多くされ、引っ越し先での作業のために、ほとんどの人がそれに相乗りして移動してくれた(乗り切れなかった人は電車で移動した)。トラックを先頭に複数台の車が連なるその光景は、周囲からはとても「二人家族」の引っ越しには見えなかったはずだ。

 新築された家に、ぼくはわくわくした。団地から出たさびしさはなかった。むしろこれまでの数年に、団地から引っ越して行った友だちらに、やっと追いついた気がした。新しく提供された自分の部屋のドアに、ぼくはさっそく「探検」で見つけたスーパーで買ってきた「社長室」というプレートを貼った。

 引っ越しの荷物がほぼ片づいたある日、おふくろが「おかしい」といいだした。段ボールがひとつないというのだ。たったひとつだけどうしても見つからないその箱には、ぼくが小学校の1年から6年まで毎夏休みに1日と欠かさず書いていた日記や、学童保育所のクリスマス会のためにぼくが物語を作り絵も描いた紙芝居などが入っていた。おふくろは八方手を尽くしたが、その、まごうかたなき「団地の想い出」は、ついに見つかることがなかった。

「男の子」が「男」になっていく変化は、女性のそれに比較して、おしなべて暴力的なものだとぼくは思っている。そして男子は、自分の内側からのその「青い春」と激烈な戦いを展開し、大きくなっていく。男親にとってそれは「来し方」であるので理解もされようというものだが、女親にとってはまさに「変身」にしか見えないのではないか。そしてごく近しいところにそのことを相談する相手のいない母親、「坊や」に対して過剰なまでの愛情を注いできた母親にとっては、特に辛いことだろうとぼくは思う。引っ越しをしてほどなくして1対1の母子は強烈に対立したが、いまこうして考えてみるとあのタイミングで武里団地を喪失したことが、その要素のひとつであったのではないかと思う。ぼくは21歳のときに自ら住み込みの新聞配達のアルバイトを見つけ引き剥がすようにして家を出てそれきりだが、いまだにその、おふくろがいまも住まう、女手一つで建てた野田の家を「実家」と呼ぶことができない。

 話がだいぶ湿っぽくなったが(笑)、しかしいっぽうで、あのタイミングで団地を出たことがよかったとも思える。おかげでいつまでも揺籃に甘んずることなく事物を考えようとする人間になったし、何よりも武里団地を良い印象だけでとらまえることができる。あのまま青年期を団地で迎えていたら、いやな部分もいっぱい見なければならなかったかもしれない。

 そしてその10年間――4歳から14歳までのまさに「少年」の時代に、あんなにも美しい、まさにおひさまの光のようなものをいっぱいいっぱいに浴びながら過ごせたことは、たぶんぼくの長所につながっていることのほうが多いはずだ。いやなことも多い世界だが、それでもやっぱり人は信じられるものである。世界はいつか、ぜったいによくなる。足掻きながらもそれを大前提として、前に進める。だからこそ本当に自身が駄目になりそうなときでも、見守ってくれる人が、助けてくれる人がいる。そうした楽観主義はときに弱点・欠点ともなるが、ぼくは好きだ。武里団地の輝ける10年間の想い出は、ただのノスタルジーではない。ぼくの原動力として常に胸の奥にある、「ひとつなぎの財宝」なのだ。

 そして永遠の少年のぼくは(笑)、あした44歳の誕生日を迎える。

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コメント
冒険ダンチ期、一気に読みました
ぶら浪漫でお世話になりました、びといんの妻ことまみぃです。「読んでください」とおっしゃっていたので早速読ませていただきました。
開かれた団地のなんと素晴らしいこと!
商店街での見守ってくださった大人のなんて素晴らしいこと!
今ならあるのが当たり前?の保育所やが学童がないなんて考えられないですよね。
お母さんたち、がんばりましたよね。
あと、冒険ごっこの話とか、あたしは7歳上の兄がいたのですが、あまり小さかったので連れていってもらえずうらやましかったのを思い出しました。
 部屋のドアに貼った、「社長室」(!)の
ネームプレート。自分だけの部屋ってすごい嬉しいですよね(^^)
【2010/05/23 20:45】 NAME[まみぃ] WEBLINK[URL] EDIT[]
お読みいただき、ありがとうございました
植木四十六(国木田独居)こと、翡翠です。

さっそくお読みいただき、ありがとうございました。

当時の生き生きとした団地の様子が少しでも伝えることができたらさいわいです。

今後ともよろしくお願いいたします。
【2010/05/24 19:57】 NAME[植木四十六(国木田独居)] WEBLINK[] EDIT[]


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