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武蔵野独り暮らし、日々雑感。
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 以下は2006年08月10日に、夏休みスペシャルとしてmixi日記に連載として綴ったものです。
 最近Twitterで知りあい懇意とさせていただいているかたより「ぜひ読みたい」とのリクエストをいただいたため、ここに再掲するものです。全7回の4回目です。
 原文ママのため、誤字脱字もそのままとします。

◎第1巻「輝ける10年間」(→)
◎第2巻「カギっ子を包むものたち」(→)
◎第3巻「団地商店街」(→)



 未来都市の中に計画的に設(しつら)えられた「団地商店街」が、トラディショナルな「ニッポンの正しい商店街」以上の性格を有するものであり、少年時代のぼくを庇護する場所であったことは、前回記した。そしてそれは一種の奇跡であったのではないかということも、そのコメントの中で記した。まさに、「エデン」である。

 しかし人間……就中少年は、某コンピュータメーカのマークのように(笑)、林檎を齧りたくなるものである。

 それはときにおふくろの本棚にあった『漫画読本』のグラビアだったり、学級文庫に誰やらが持ってきた『ハレンチ学園』であったり、住んでいた棟の焼却炉に捨ててあった『平凡パンチ』であったり、おふくろが熟睡していることを確認してからテレビのボリュームを思い切り絞って観る『11PM』だったりしたわけだが、そうしたあからさまに歯茎ならぬ鼻から血を出すような林檎はともかくとして(ともかくだったのか!)、ぼくの日常の中で、それとまでは明確に意識しないまでも、団地商店街とは違った、どことなく「ちょい悪(ぷぷっ)」な雰囲気を感じながら接していたのが、「駄菓子屋」であり「露天商」であった。

 ぼくとぼくの仲間たちが利用していた駄菓子屋は、全部で3つ。どれも、団地の外にあった。

 うちひとつは駄菓子屋というよりも、普通のお菓子屋さんであったように思う。名前は失念。団地に隣接はしていたが、おそらくは団地ができる前から田畑の中にちょこっとあった五六軒並ぶ商店のひとつで、団地の南端、「千間堀(せんげんぼり)」という団地と他とを分かつ川に面していた。川や田畑で遊ぶときの拠点となる店だったが、肝心の店そのものの記憶はあまりない。が、店の前になぜかカニクイザルを飼うオリがあって、小3の晩秋、その前で団地外の他校の6年生と口喧嘩をして優勢に立った瞬間、そのサルに髪を引っ張られて一気に劣勢になったという苦い記憶がある(笑)。蛇足ながらそのときの口喧嘩のきっかけや内容はよく憶えていないが、「どっちが金持ちか」という馬鹿な論争に到ったときに、ぼくが「ウチにはミンクのコートがある」とでまかせをいったところ、相手が「ウチにはピンクのコートがある」と切り返してきたのにはぎゃふんとなった。さすがイナカモンでも6年生は天晴だと思ったものだ。

 団地の北東部、1街区で遊ぶときに拠点となったのが、団地より約100mはずれた、「武里」駅に至る踏み切りの手前、ドブの上にあった『ラッピー』である。ここが最も駄菓子屋然とした駄菓子屋で、ぼくの中の記憶も濃厚だ。実はミクシィにも「武里団地」コミュがあるのだが、そこで語られることも多い。もちろんいまは無いのだが、面白いのは、コミュのメンバの世代によって、ラッピーは駄菓子屋だけでなく、「魚屋」だったり「ペットショップ」だったりすることだ(笑)。この辺りがいかにも怪しい感じで、実に好ましい。そういえばぼくもラッピーの前にアジの干物が干してあったような気もするし、ハツカネズミのつがいを買ったような気もする。

 マンガ『20世紀少年』のぼくら世代の読者は、そこに登場する駄菓子屋『ジジババ』に「自分の駄菓子屋」を投影するはずだが、ぼくの中でのそれはラッピーである。ことに同マンガで最高に可笑しい場面のひとつに、「こどもたちの社交場であるはずのジジババの横の塀にはなぜかピンク映画のポスターが貼ってあって……」云々というのがあるのだが、ラッピーの横の壁にも『越谷大劇』という隣村(笑)のストリップ劇場のポスターが欠くことなく貼られていて、
「おい『白黒ショー』って何だと思う?」
「そりゃアレじゃないかな、白人と黒人のおねえさんがさ……踊るんだよ」
「踊るってオマエ、どんなカッコだよ」
「はだか……なんじゃないか」
「はだか? ってことは、ボインとかは……」
「そりゃあほら」
「丸出し!?」
「ホントかよ!?」
「やめろよ、チンコ立っちゃうよ」
 といった会話を交わしていた馬鹿な男子のひとりであったぼくにとって、強烈なシンパシーを感じる場面だったりするわけである。

 なお、ラッピーにも「ヨーグル」というヨーグルトの容器を模した“例の”駄菓子屋名物があったわけだが、ある日未開封の箱の中ではそれの「アタリ」が分別されていることを知り、次の箱を勝手に開けアタリばかりを取り、連続して喰らっていたのは、大畑小学校5年1組(昭和48年度)の連中です。ラッピーさんすみません(笑)。ちなみにミクシィで再会したマイミクの「大畑小学校児童会長」によれば、「ラッピー」というのは正式な屋号ではなく、扱っていた商品の名前がそのまま定着してしまい、店主も面倒なのでそのまま使っていたとのこと。何ともおおらかな時代である。なお、児童会長が上記のような会話をしていたかは知らない(笑)

 通った期間は短かったが、ラッピーに伍する想い出があるのが、団地の西のはずれにあった『ほんやマ』である。もしかすると『ホンヤま』だったかもしれないが、どっちが正解かは憶えていない。ただ、最後の「ま」もしくは「マ」だけが、なぜか小さかった。いまもってどうしてなのかは謎だが、これもいかにも駄菓子屋っぽくて好ましい。ここでは「ほんやマ」とする。たぶん、4年生のときだけ通ったと思う。

 ほんやマで扱っていた商品では、登場して数年のカップヌードル……の、パチもんが懐かしい。ジュース用カップサイズで、短い麺が入っていた。店先にこれまた登場したばかりの電動ポットが置いてありお湯は使いたい放題だったので、50円でそのパチもんを買ってそれを喰らってしまうと、カップだけ大事にとっておいて遊び、また空腹を覚えたときにベビースターラーメンを5円だか10円だかで買って入れ、お湯を注いで「おかわり」をしたものだ。

 しかしながらほんやマでの想い出で最高に鮮烈なのは、何といっても「仮面ライダーごっこ」である(待ってました!)。上記、4年生のときだけだったというのも実はこれがためで、ほんやマの目の前に、造成中の周囲の土砂を集めた、いかにもな小山があったのである。ほんやマは実は他校のテリトリにあったのだが、そんなわけで危険を圧して通った。当時はまだ自分の自転車(まだ「チャリンコ」という言葉が団地では一般的ではなかった)を持っている者は少なかったため、いきおい持っているものがライダーの優先権があったのだが、さいわいぼくは持っていたので、いつも2号ライダー一文字隼人を演じていた(一文字が好きだったし、チビだったから)。この日記の「1巻」で語ったように団地の西側は遠く岩槻のほうの地平線に沈む夕日が見えるほどに何もなかったため、ぼくは身を切るように冷たく激く吹きすさぶ「赤城おろし」を全身に受けながらも、その「風の力」をもって全身を夕日の「正義の赤」に染めながら、「へんんんんっしんっっ、とうぉ~っ!!」とやっていたのである。ぼくはいまでも冬の寒風が嫌いではないが、この頃の記憶が支配的にあるのだろうなと思う。

 このテの話になると、つい燃えて長くなってしまう(笑)。いずれにせよ、駄菓子屋すべてが「団地の外」にあったというのが、語りたいことの重要な要素のひとつである。この辺りのことも含めて、露天商のことは次回記したいと思う。

 次回『怪人ロテンヒヨコ、少年取り込み作戦』にご期待ください!(声:中江真司)



 第5巻「露天商とぼく」は近日掲載予定です。

【追記】アップしました。(こちら→)

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