武蔵野独り暮らし、日々雑感。
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 日付変わって誕生日。もう立派な「アラフィフ」だ(笑) まあ四十路を迎えたばかりのころに決めた壮大な予定は諸般の事情でなかなか実現できないままに7年という年月が経過したわけだが、とりあえずきょう現在、まだまだ行けるし、さらに頑張ろうとの信念を新たにするわけだ。 ともかくも30代まで、さらには40代を迎えても見えなかった大切なことたちに——ことにこの一二年の間に——あらためて気づけたことは大きい。三毛猫とか(笑) そして少しずつではあるけれども人生における夢の実現へと着実に歩が進んでいる感を、いまこの瞬間に確信できるということはとてもうれしい。 深みを、得た……って、まだまだ「チャングム人生」続行中だが(笑) そうしてきょうは、お祝いをしてくれる大切な人と、たのしくかつ凛としたときを過ごす予定。 四十五十は洟垂れ小僧。 あらためて、ミュージカル『ラ・マンチャの男』主題歌『見果てぬ夢』を再生なう!! マイミクにしてマイツイ(Twitter仲間)の某パダワンが、ここに来てTBSで再放送されているという『宮廷女官チャングムの誓い(大長今)』を初めて観て、ハマりにハマっているらしい。 録画した同番組を観ながらいちいちTwitterでつぶやいていて、 「ああ〜、やっぱり!!」 と、うれしくなることしきりだ。俺も初見の時(2007/01〜)にもしTwitterを積極的に使っていたら、さぞやつぶやきが五月蝿かったことだろう(笑) それだけ魅力的な作品ということだ。パダワンがハマってくれて、心の底からうれしい。 というわけでそうした心持ちと酒の勢いもあって、先刻Twitterで「チャングム論」みたいなモンを数々つぶやいたので、ここに転載バカボンする。これで、いいのだ。 (パカボンママ……んじゃなくて、原文ママ) ------ 「マイツイw」の一人が、ここに来て『宮廷女官チャングムの誓い(大長今)』にハマっている模様。さもありなん。もっともだ。 彼が全話観終わったら、ぜひともに「iPhone自慢大会チャングム篇」を開催したいものだ。 ------ 古今東西、名作というのは多いが、「すべての人々がハマってしかるべき」というものはそうそうない。 しかしiPhoneと『宮廷女官チャングムの誓い(大長今)』は、それらに数えられるものだ。激烈な魅力を持っている。 ------ 『チャングム』の魅力を語りだしたらキリがないが、最大のツボは「近代文芸作品におけるワクワクのツボ」の踏襲だと思う。いわゆる「王道」。 たとえば『モンテ・クリスト伯』に見られるゴージャスな復讐劇。 それがまず魅力の基本としてある。 ------ さらに『チャングム』の魅力としては『美味しんぼ』とか『庖丁人味平』とかに見られる「食べ物勝負」が大きい。これは人の琴線に訴えるものだ。 そして「食」を通じて物事の本質、ことに「母性」というものを語りかけているところがすごいところだ。 ------ さらにはまた主人公が「ものすごい実力を持っているのに、弱点もまた満載(笑)」という点も見事。視聴者の「じれ」を喚起する。 或る時期から日本で作られるドラマの数々は主人公の弱点ばかりにスポットを当て過ぎ、そこへの掘り下げばかりが大きくなってしまったと思う。 だから、つまんなくった。 ------ 人はやはり根源的に「威風堂々たる物語」を見たいと潜在的に思っていると思う。『チャングム』はその堂々たる根幹部分と、弱点(つっこみどころ)満載の主人公とのバランスがとてもうまい。 ------ ぼくら個々を考えてみても理想的な自分というのは確かにあって、出来たらそれだけに邁進したいと思っている。 しかし日々の糊口をしのがなければならないとか、個々の性格的失敗(笑)とか、そんなものがあってなかなか思い描いたようにはならない。でも、それが「人が生きる」ということだろう。 ------ そうしてまた「凛とした目的」さえしっかりしていれば、そのために辛いことも多いけれども、実は見守っていてくれている他者はちゃえんといて、いざという時に、自身も思いもよらない形でたすけてくれる。 そんなことを『チャングム』は語ってくれる。 ------ 時代だとか個々の弱さだとかにスポットを当て過ぎて、小児病患者のになってしまった日本のドラマやアニメなどとの何たる違いかと、『チャングム』を観ていてぼくは思った。 日本が忘れたこっ恥ずかしいまでの「ドラマの王道」。それがともかく『宮廷女官チャングムの誓い(大長今)』の魅力だろう。 ------ ま、大事なのはロマンっすよ。 ------ というわけで、やっぱりチャングムはすごい。 なんかまたもGyaOにて無料配信中らしいが、これって字幕がテキトー(オギョモがオネエ言葉でしゃべってたりとかw)だと思うので、まあそこはお客様の自己判断ってやつで(笑) いずれにせよ最低でもiPhoneとTwitterとチャングムの魅力を理解しない人々に対し、俺は言いたい言葉がある。 「あんた、バカぁ? 」(アスカ) いま確認してみたら、わがMacBookのiTunesには、36.65GBぶんの容量の曲が入っているらしい。 これが多いか少ないかは知らん。まあともかく俺は「これは入れとこ」と思ったら手元のCDもしくはレンタルCDからどんどんiTunesに読み込み、iPhoneに転送しては持ち歩いて聴いている。もちろん、iTS(ITunes Store)で曲単位で買うものもある。 で、肝心のiPhoneは全体でも16GBしか容量がないので、都度「プレイリスト」機能などでで管理しているものを入れるの入れないのしているわけだ。たとえば「テレビまんが」プレイリストとか「マーラー」プレイリストとか「真・燃えるリスト」プレイリストとか、そんな感じ。 さてところでiPhoneというモバイル(つまり外出中)ではなく目の前にそれらの全曲が入っているMacがあったとき、たまぁに、プレイリストやさらにはジャンルを問わず、 「入っている曲全部」 をシャッフルプレイしたくなることがある。 さっきがまさにそうだった。 で、それを実際にやってみると面白いことに、 「いま現在の俺の気分が求めている曲」 が、かかることが多い。 もちろん全部がぜんぶではないのだけれど、けっこう「ああっ、そうか!!」と思うことが多くて驚く。 これ、iTunesの最初のバージョンからそうだった。 こっちの気持ちにぴったりとか、あるいは「ああそうだよな、これ(こういう考え方とか)もあったよな!!」とか、そういう感じ。 不思議な気分になる。 冷静に考えればそもそもiTunesに入れるのは「俺が好きな曲」なのだから、なんかそういったある種の理屈がありそうな選曲になるのはわかる。 が——これは受け手の感性とか酔い(笑)なのかもしんないが——けっこうツボにハマって感動することが多い。 こうした経験は、多くのかたにあると思う。 ここで俺は何もデジタルをオカルトで語るつもりはないが、iTunesって少なくとも温度とか湿度とかあるいは季節感とか、そんなことまでのセンサを持っているのではないかと思うことは少なくない。そんなはずはないのだが。 まあ理屈は知らんが、ともかくもこういうものを与えてくれるiTunesというのは心地よい。 分母がデカくなればなるほどこういう不思議と、また同時に「勇気を得る機会」は増幅されると思うので、ともかくもiTunesやiPodを楽しみましょうよって話だ。 つか、この文章を綴っている間にクラシックは一曲もかからず、この瞬間にケテルビーの『谷間を渡る風』とかかが再生される不思議。 その前の曲はサザンの『君だけに夢をもう一度』だった。 両者に通ずる、からりと乾いた、それでいてせつない風の流れ。 泣ける。 まあきっと、なんかあるのだろう。 iPhone用のアプリケーション(App)に、ちょっとこれはすごいと思わせる『Memory Tree』というものがある。 何がどうすごいかということをぼくなりに簡単にいうと、 「極めてSF的であり、かつヒトなどの生命《いのち》の在り方などについての、『次なるステージ』を感じさせる」 とでもなるか。 具体的にどういうAppなのかを言葉で簡潔に示すと、 「ネット上に『その場所』の記憶を保存してくれるもの」 ということにでもなろうか。 Appの具体的な動作を語ろう。 ある場所に居るときに、『Memory Tree』を起動する。 そしてその場所で、iPhoneを縦に振る。 そうするとiPhoneが、「その場所」で「かつて誰かによって撮影された写真」を表示してくれる。iPhoneの持つ、GPS(位置)情報を利用した機能だ。 逆に自分がその場所に「写真を残しておきたい」とする。 この時は写真を撮影したあとに、iPhoneを横に振る。 そうすると自分がその時に撮った写真がその場所に記憶され、いつか誰かが同じ場所でiPhoneを先述のように「縦振り」をした時に、いま自分が「ばらまいた」写真が、誰かの目に留まる……とまあ、こういう話だ。 すごく淡白にデジタルな仕組みだけでいってしまえば、 「時刻や位置情報を含む写真がサーバにアップロードされ、それを閲覧者が同じくGPS情報をもとに参照することができる」 というだけの話だ。 たとえばmixiなどのSNSやTwitterなどに比較して、そんなに面白いと思わないかたも少なくないだろうと思う。 が、このダイナミズムは冒頭に記したように、ちょっとこれまでのぼくらの中にある「ネット」の常識とか、もっといえばヒトなりとしての生命の在り様にまで、一種の変革をせまるものかもしれないなと、ぼくなんぞは思う。 これまでの歴史の中でヒトは「記憶」へのこだわりを見せてきた。特に近代、ビジュアルな意味でのそれらに対するアプローチはものすごいものがあると思う。 たとえば肖像画、たとえば写真、たとえばドキュメンタリ、たとえばホームビデオ……枚挙にいとまはない。 もっというとたとえば化石や遺跡の発掘、そして鉱物への傾倒なども、そういう「記憶」へのアプローチなのだといえると思う。時空を超えるもの。クオ・バディス……我々は何処から来たのか、何処へ行くのか。 さて『Memory Tree』。 いまはまだiPhoneも含め一部のキャズム(新しもの好き)だけのものだが、これが「あたりまえになった世界」を夢想してみる。そして数十年、数百年の蓄積が、すでにあったとしたら…… たとえば東京は桜田門近くでiPhone(でなくてもいいが)デバイスを縦振りした時に、そこに現れる画像や動画は? 江戸時代……いやもっと昔から『Memory Tree』があったとしたら、まだ海岸であったときのそこや、井伊直弼が云々された現場だとか、あるいは二・二六事件がどうしたとか、そんなものがダイナミックに映し出されるであろう。 いや、そんな歴史的に有名な話ばかりではなく、どうでもない場所のどうでもない人々の日々の営みを見るだけでも、何か感じ入るものはあるのではないか。それこそ、クマさんハッつぁんとか。 そしてもっと話を大袈裟にすれば、そうした一人びとりの生活なりちょっとしたよろこびとかかなしみとかそんなものを目の当たりにすることによって、たとえば核は無くそうとか戦争はやめようとか、そんなことにまで考えが及ぶような気がする。 もちろんそうした大義のものではないにしても、いまこの2009年8月現在にしたってすでに『Memory Tree』はあるのだから、身内の記憶とかそういうものだってその「場所」に残すことができるわけだ。これは、すごいことだと思う。 (ぼくはmixiから本ブログに移行する前から日記のタイトルは古今の様々な作品タイトルをもじることに決めているのだけど)今回のこのエントリのタイトルを考えるときに、まず「軌跡の人」というのが思い浮かんだ。 でも『Memory Tree』というサービスを考えてみると、ただ「軌跡」だけではなく、原題どおりに「奇跡」であり、また「鬼籍」に入った人さえたどることができるのだなと思った。だから、タイトルはカタカナでひらいた。 「過去を画像・映像でたどる」ことが必ずしも正しいことかどうかはわからない。ヒトの美徳のひとつが忘却であるとも思うからだ。 しかしすでにこういう技術・サービスが存在する以上、そして前々からリリースが期待される『セカイカメラ』などを控えている以上、ぼくらにちょっとした考えかたの変革が求められているのはたしかだろうなと思う。 あらゆるものに位置情報なり記憶なりが残される時代は、ある意味で怖い。 でも、怖いと思ったらやらなければいい。 『Memory Tree』でいえばそこで写真を撮ってiPhoneを横振りしなけりゃ記憶は残らないし、「ここはちょっとヤバいな」と思ったら、その場所で縦振りをしなければいい。それだけの話だ。 Twitterもそうだけれども、いろんなものに押しつけがない。そこが気持ちいい。そんな風に、ぼくらはすでにネットとかバーチャルとかとの付き合いかたを学びはじめていると思う。それで、いいのだ。 まあともかく『Memory Tree』は、一度体験しておくといいと思う。 App Storeで、無料ざんすよ。シェーッ!! |
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