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武蔵野独り暮らし、日々雑感。
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 NHK BS2で毎日曜放送中の韓国ドラマ『イ・サン』がめっぽう面白い。

 かの“古今東西史上最高のTVドラマ”であるところの『宮廷女官 チャングムの誓い(大長今)』のイ・ビョンフン監督作品なので面白いのは当然なのだが、きょう(5/2 23:55現在)の回がまたどうにも凄くて、あらためてこのサントラが欲しいと思ったわけだ。

 で、ネットで色々と探したのだが、今回はこのことを巡るハナシ。

 まずこのサントラ、「日本版」として発売されているCDは理不尽に高い。同商品はAmazonでも評価が低く、これを購入するのはちょっとためらわれる。
 楽天では同内容の韓国からの輸入盤の扱いがあってこれは廉価なのだが、送料がちと高い。
 また、まだ時期が経っていないこともあって、TSUTAYA等でのレンタルも無い。

 というわけで「まあ無いだろうな」と思いながらもiTunes Store(iTS)で探してみたわけだ。

 そもそも俺は最近、CDというものをほとんど買わない。だいたい上記iTSで購入するか、TSUTAYAなどで借りてきてiTunesに取り込んで済ませている。
まあ俺の場合ビンボというのもあるのだが(笑)、ウチに来たことがあるかたはおわかりのように、これ以上「モノ」を増やしたくないというのがまずある。いうまでもなくiTunes等のハードディスクに保存する世界であれば、場所ふさぎにはならないからだ。

 さて件のサントラ。
 案の定iTSには無かったのだが、TSUTAYA等でネット配信されていることがわかった。(→TSUTAYA DISCASのリンク
 しかしご存知のかたはごぞんじのように、上記TSUTAYAなど日本の多くの音楽配信サイトで提供されている「著作権保護されたWindows Media形式」の配信というのはクソもいいところで、たとえばPCや携帯を買い替えたから聴けなくなる(あるいは面倒な手続きが必要)といったものだ。
 こんなモンを購入するぐらいならCDを買ったほうがまだマシといったハナシで、なぜ世界的にこういうWMAとかWMDとか呼ばれる配信よりもiTSが圧倒的に支持されているかといえば、著作権はきちんと保護しながらも、ユーザにとってより柔軟な利用・聴きかたが可能だからだ。

 アップルが採用しているDRM(著作権保護機能)である「FairPlay」についてWikipediaから引用すると、
  • パソコンでの再生:5台(コピーは無制限)
  • 全く同じ内容の音楽CD作成:7枚
  • iPodおよび対応携帯電話との同期:無制限
  • 純正iアプリケーションでの利用:可
  • ネットワークによる認証方式。解除、切り換えも可能。
  • 複数アカウントの共存が可能。 
 である。
 まあ簡単にいえば複数のパソコンやiPhone含むiPodでも同時に利用することが出来て、CDを作るのも手軽だというハナシ。
 対して日本で“提供会社”だけはやたらと多い音楽配信は、最初からiTunesを使っている人には想像もつかないようなガチガチのものなのだ。だからLISMOや着うたフルといったケータイしか知らないような人々を——あえていうが——騙すことは出来ても、世界的にはほとんど支持されていない。

 このことは、いわゆる「ネットでの音楽販売」が、まだまだこの日本で主流になっていないことの理由でもある。TSUTAYA等でCDそのものをレンタルしてきてiPodやその他のミュージック・プレイヤ用にリッピング(取り込む)のに比較して、柔軟性が低いからだ。
 逆にいえばiTSのような柔軟なネット販売を採用せずに旧態然としたものにしがみついているこの国の業界は、自分で自分の首を絞めているといえなくもない。

 ところで『イ・サン』のサントラだが、
「日本のiTSでは販売されてないけど、ひょっとしたら韓国にはあるかな?」
 と思って韓国のiTSにアクセスして驚いた。

 韓国のiTSではiPhoneアプリの配信はあるが、「音楽」そのものの配信が無い。のみならず中国、台湾、香港、シンガポール、マカオといった他のアジア諸国も同様だった。
 iTSで音楽配信がされているのは、日本だけなのだ。
 日本のiTSだって、いいかげんヘナチョコなのに……

 後追いで考えると「なるほどそうかも」とも思うのだが、これはちょっと衝撃的だった。少なくともシンガポール辺りではありそうなもんだと思ったのだが。

 他国のネットでの音楽配信事情については詳細を知らないし、「アップル」というもの(理念?)がまだまだアジアでは浸透していないのかもしれない。しかしこれからiPhoneなりiPadなりがアジア諸国も含めて大きくブレイクするはずに違いないこの時に、これは由々しきことだと思う。

 歴史をひも解けば、今世紀の初頭、ネットで不正な音楽等のやりとりが行われるようになったその時に、これを逆転の発想で歯止めをかけたのがiTS(当時はiTunes Music Store)だった。
 別にiTSでなくてもいいが、フェアな音楽や映像そして電子書籍などの配信が行われるようにならないと、不正コピーばかりになってしまう。いまこの時こそ、iTSのようなものが日本を含むアジア諸国で普及しなければならないと考えた次第。

 つうか『イ・サン』のサントラ欲しいなあ。P2Pで落としちゃうおうかしら(←こらっ!)

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※※
 以下は2006年08月10日に、夏休みスペシャルとしてmixi日記に連載として綴ったものです。
 最近Twitterで知りあい懇意とさせていただいているかたより「ぜひ読みたい」とのリクエストをいただいたため、ここに再掲するものです。全7回の4回目です。
 原文ママのため、誤字脱字もそのままとします。

◎第1巻「輝ける10年間」(→)
◎第2巻「カギっ子を包むものたち」(→)
◎第3巻「団地商店街」(→)



 未来都市の中に計画的に設(しつら)えられた「団地商店街」が、トラディショナルな「ニッポンの正しい商店街」以上の性格を有するものであり、少年時代のぼくを庇護する場所であったことは、前回記した。そしてそれは一種の奇跡であったのではないかということも、そのコメントの中で記した。まさに、「エデン」である。

 しかし人間……就中少年は、某コンピュータメーカのマークのように(笑)、林檎を齧りたくなるものである。

 それはときにおふくろの本棚にあった『漫画読本』のグラビアだったり、学級文庫に誰やらが持ってきた『ハレンチ学園』であったり、住んでいた棟の焼却炉に捨ててあった『平凡パンチ』であったり、おふくろが熟睡していることを確認してからテレビのボリュームを思い切り絞って観る『11PM』だったりしたわけだが、そうしたあからさまに歯茎ならぬ鼻から血を出すような林檎はともかくとして(ともかくだったのか!)、ぼくの日常の中で、それとまでは明確に意識しないまでも、団地商店街とは違った、どことなく「ちょい悪(ぷぷっ)」な雰囲気を感じながら接していたのが、「駄菓子屋」であり「露天商」であった。

 ぼくとぼくの仲間たちが利用していた駄菓子屋は、全部で3つ。どれも、団地の外にあった。

 うちひとつは駄菓子屋というよりも、普通のお菓子屋さんであったように思う。名前は失念。団地に隣接はしていたが、おそらくは団地ができる前から田畑の中にちょこっとあった五六軒並ぶ商店のひとつで、団地の南端、「千間堀(せんげんぼり)」という団地と他とを分かつ川に面していた。川や田畑で遊ぶときの拠点となる店だったが、肝心の店そのものの記憶はあまりない。が、店の前になぜかカニクイザルを飼うオリがあって、小3の晩秋、その前で団地外の他校の6年生と口喧嘩をして優勢に立った瞬間、そのサルに髪を引っ張られて一気に劣勢になったという苦い記憶がある(笑)。蛇足ながらそのときの口喧嘩のきっかけや内容はよく憶えていないが、「どっちが金持ちか」という馬鹿な論争に到ったときに、ぼくが「ウチにはミンクのコートがある」とでまかせをいったところ、相手が「ウチにはピンクのコートがある」と切り返してきたのにはぎゃふんとなった。さすがイナカモンでも6年生は天晴だと思ったものだ。

 団地の北東部、1街区で遊ぶときに拠点となったのが、団地より約100mはずれた、「武里」駅に至る踏み切りの手前、ドブの上にあった『ラッピー』である。ここが最も駄菓子屋然とした駄菓子屋で、ぼくの中の記憶も濃厚だ。実はミクシィにも「武里団地」コミュがあるのだが、そこで語られることも多い。もちろんいまは無いのだが、面白いのは、コミュのメンバの世代によって、ラッピーは駄菓子屋だけでなく、「魚屋」だったり「ペットショップ」だったりすることだ(笑)。この辺りがいかにも怪しい感じで、実に好ましい。そういえばぼくもラッピーの前にアジの干物が干してあったような気もするし、ハツカネズミのつがいを買ったような気もする。

 マンガ『20世紀少年』のぼくら世代の読者は、そこに登場する駄菓子屋『ジジババ』に「自分の駄菓子屋」を投影するはずだが、ぼくの中でのそれはラッピーである。ことに同マンガで最高に可笑しい場面のひとつに、「こどもたちの社交場であるはずのジジババの横の塀にはなぜかピンク映画のポスターが貼ってあって……」云々というのがあるのだが、ラッピーの横の壁にも『越谷大劇』という隣村(笑)のストリップ劇場のポスターが欠くことなく貼られていて、
「おい『白黒ショー』って何だと思う?」
「そりゃアレじゃないかな、白人と黒人のおねえさんがさ……踊るんだよ」
「踊るってオマエ、どんなカッコだよ」
「はだか……なんじゃないか」
「はだか? ってことは、ボインとかは……」
「そりゃあほら」
「丸出し!?」
「ホントかよ!?」
「やめろよ、チンコ立っちゃうよ」
 といった会話を交わしていた馬鹿な男子のひとりであったぼくにとって、強烈なシンパシーを感じる場面だったりするわけである。

 なお、ラッピーにも「ヨーグル」というヨーグルトの容器を模した“例の”駄菓子屋名物があったわけだが、ある日未開封の箱の中ではそれの「アタリ」が分別されていることを知り、次の箱を勝手に開けアタリばかりを取り、連続して喰らっていたのは、大畑小学校5年1組(昭和48年度)の連中です。ラッピーさんすみません(笑)。ちなみにミクシィで再会したマイミクの「大畑小学校児童会長」によれば、「ラッピー」というのは正式な屋号ではなく、扱っていた商品の名前がそのまま定着してしまい、店主も面倒なのでそのまま使っていたとのこと。何ともおおらかな時代である。なお、児童会長が上記のような会話をしていたかは知らない(笑)

 通った期間は短かったが、ラッピーに伍する想い出があるのが、団地の西のはずれにあった『ほんやマ』である。もしかすると『ホンヤま』だったかもしれないが、どっちが正解かは憶えていない。ただ、最後の「ま」もしくは「マ」だけが、なぜか小さかった。いまもってどうしてなのかは謎だが、これもいかにも駄菓子屋っぽくて好ましい。ここでは「ほんやマ」とする。たぶん、4年生のときだけ通ったと思う。

 ほんやマで扱っていた商品では、登場して数年のカップヌードル……の、パチもんが懐かしい。ジュース用カップサイズで、短い麺が入っていた。店先にこれまた登場したばかりの電動ポットが置いてありお湯は使いたい放題だったので、50円でそのパチもんを買ってそれを喰らってしまうと、カップだけ大事にとっておいて遊び、また空腹を覚えたときにベビースターラーメンを5円だか10円だかで買って入れ、お湯を注いで「おかわり」をしたものだ。

 しかしながらほんやマでの想い出で最高に鮮烈なのは、何といっても「仮面ライダーごっこ」である(待ってました!)。上記、4年生のときだけだったというのも実はこれがためで、ほんやマの目の前に、造成中の周囲の土砂を集めた、いかにもな小山があったのである。ほんやマは実は他校のテリトリにあったのだが、そんなわけで危険を圧して通った。当時はまだ自分の自転車(まだ「チャリンコ」という言葉が団地では一般的ではなかった)を持っている者は少なかったため、いきおい持っているものがライダーの優先権があったのだが、さいわいぼくは持っていたので、いつも2号ライダー一文字隼人を演じていた(一文字が好きだったし、チビだったから)。この日記の「1巻」で語ったように団地の西側は遠く岩槻のほうの地平線に沈む夕日が見えるほどに何もなかったため、ぼくは身を切るように冷たく激く吹きすさぶ「赤城おろし」を全身に受けながらも、その「風の力」をもって全身を夕日の「正義の赤」に染めながら、「へんんんんっしんっっ、とうぉ~っ!!」とやっていたのである。ぼくはいまでも冬の寒風が嫌いではないが、この頃の記憶が支配的にあるのだろうなと思う。

 このテの話になると、つい燃えて長くなってしまう(笑)。いずれにせよ、駄菓子屋すべてが「団地の外」にあったというのが、語りたいことの重要な要素のひとつである。この辺りのことも含めて、露天商のことは次回記したいと思う。

 次回『怪人ロテンヒヨコ、少年取り込み作戦』にご期待ください!(声:中江真司)



 第5巻「露天商とぼく」は近日掲載予定です。

【追記】アップしました。(こちら→)

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※※※
 以下は2006年08月06日に、夏休みスペシャルとしてmixi日記に連載として綴ったものです。
 最近Twitterで知りあい懇意とさせていただいているかたより「ぜひ読みたい」とのリクエストをいただいたため、ここに再掲するものです。全7回の3回目です。
 原文ママのため、誤字脱字もそのままとします。

◎第1巻「輝ける10年間」(→)
◎第2巻「カギっ子を包むものたち」(→)



 映画『ALWAYS 三丁目の夕日』を初めて観たとき、それこそ冒頭からかなりヤバいシーンの連続で鼻の奥がつんつんしていたのだが、ついに涙腺が大爆発をしたのが、
「ロクちゃんを乗せたミゼットが市電通りから右折して、夕日町へと入った瞬間」
 の1カットであった。そしてこのときぼくは、「もの凄い映画をつくったなあ……」と心から感嘆し、あらためて映画に対し襟を正したものである。

 ぼくの涙腺が人並外れて緩いのは多くのかたがご存知のとおりだが、上記の場面はまあ、いわゆる「泣かせ処」ではない。ぼくも何故そこだったのかがずっと不思議だったのだが、先日武里団地のまさに中心に位置する商店街に立って、その謎が一気に氷解した。ああ、あの場面にぼくは、活気に満ちあふれていた「団地商店街」の幻影を見たのだな、と。

 前回触れたように母子家庭だったこともあって、ぼくの「はじめてのおつかい」は比較的早かったように思える。物心ついたときにはひとり買い物かごをぶらさげ、「豚コマ100」なんていっていた。帰宅の遅いおふくろに代わって日常の買い物をするのは、毎日ではなかったが、小学校までのぼくのルーチンでもあった。で、「お駄賃」などもちゃっかりもらっていたので、勢いお菓子屋さんとも懇意になる(笑)。本屋さん、おもちゃ屋さんでもどちらかというとお得意さん、さらにおふくろが団地内で毎土日に「絵の教室」なども運営していたこともあって、二卵生双生児のおねえさんたちがきりもりする文房具屋さんでも、大いに可愛がられたものである。また、修学してからの給食の無い土曜日にはおふくろの帰宅を待てないため、昼食は中華料理屋さんかおそば屋さんに出かけ、チャーハンかカツ丼もしくは鍋焼きうどんをひとり食べる小学生であった。それらの是非はともかくとして、団地商店街とぼくとの関係は、かなり濃密なものであったといえる。ぼくは、「商店街の子」でもあった。

「町の商店街」というものが素晴らしいのは、単に物品の売買ということにとどまらず、その全体として、「こどもたちの監視」という機能も担っているところだ。お店の人や買い物に来たおとなたちが、商店街を走り回るこどもたちの動向をそれとなく見守っている。もちろんいたずらっ子の常として「いかにおとなたちの目を盗んで悪いことをするか」というのには腐心したものだが(笑)、それとてもまあかわいいもので、いわゆる「道を踏み外す」ということはしなかった。おとなたちはこどもたちを見守り、声をかけ、時に怒ってくれた。だからおふくろも安心してぼくを商店街にゆだねられたのだろうし、ほかの家庭も多かれ少なかれ同じだったはずだ。「昔はよかった…」とばかりいうのはぼくは好きではないが、少なくともこどもたちを育む環境として「町の商店街」がほとんど失われてしまったことは、この国の大きな間違いであると思う。そして過日団地を訪ったときも、日曜の午後とはいえ商店街は閑散とし、ぼくの記憶の中の賑わいは見いだしえなかった。たぶんいまの団地住人は、見違えるように開発されたせんげん台駅前や日光街道沿いの巨大スーパーなどで、日常の買い物をしているのだろう。


 ところで、団地商店街が「表」だとすると、「裏」ともいえるのが「駄菓子屋」と「露天商の人々」であった。今回併せて記すつもりだったが、これについては次回に持ち越したい……



 第4巻「駄菓子屋讃歌」は、近日掲載予定です。

【追記】アップしました。(こちら→)

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※※※
 以下は2006年08月04日に、夏休みスペシャルとしてmixi日記に連載として綴ったものです。
 最近Twitterで知りあい懇意とさせていただいているかたより「ぜひ読みたい」とのリクエストをいただいたため、ここに再掲するものです。全67回の2回目です。
 原文ママのため、誤字脱字もそのままとします。
(第一巻「輝ける10年間」はこちら→



 前回、昭和40年代当時の武里団地のロケーションによって、ぼくの中に「都市性」と「自然」の両者がインプリンティングされたことが大きいということを記した。が、たとえばいまこの現代、同様に田舎にいきなり巨大な団地ができたとしても、ぼくがこの日記で語る「輝ける時代」と呼べるものになるかどうかについては、はなはだ疑問だ。なぜならば、現代はあまりに「個」が成立しやすいからだ。

 いうまでもなく団地というのはそれまでのこの国の一般住宅とは違い、玄関扉ひとつ閉じてしまえば、完全に外と隔絶される形態の住居である。が、少なくとも昭和40年代の武里団地、就中少年だったぼくの周囲は、外界に大きく開けていた。それは多分に、人々がまだ「プライバシー」というものに慣れていなかった時代であり、また互いに助け合っていかなければ生きていけなかった時代であったからであろう。なにせ映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の舞台からまだ10年程度しか経っていない頃だったといえばわかりやすいだろうが、ぼくの場合はさらに、いくつかの特殊な事情があった。

 ものの順序として記さなければならないが、団地に引っ越してすぐに、親爺(父)が家から姿を消した。昨今のぼくと親爺の愉快な関係については日記でも何回か取り上げておりいまは仲良くやっていることをご存知のかたも多いだろうが、まあ要するにおふくろ(母)とぼくとの生活を放棄して、家を飛び出したというわけである。で、その詳細はともかくとして、おふくろは女手ひとつで、ぼくを育てなければならなくなった。幸いにして小学校の図工の教師という職があったので食うに事欠くことはなかったのだが、問題は「4歳のぼく」である。

 当時、団地はおろか春日部市全体をしても、公立の保育所がひとつもなかった。前回記したように生活に必要なたいがいのものはすでに用意されていた団地だったが、そこに住まう少なからぬ共働き家庭のためのものがなかったということになる。保育所の設立は急務となった。分けてもおふくろにとっては死活問題で、設立運動の中心となったらしい。「らしい」というのは当時のぼくはそんなことは露知らず、毎夜のようにぼくンチにおとなたちが集まっては会議をしている隣の部屋で、そこに連れて来られた同じくチビたちと、押し入れを秘密基地にしたりして、遊びに興じていたからだ。やがて運動が実を結んで保育所ができたが、その次は就学するぼくたちの放課後の受皿たる学童保育所の設立と、おとなたちの会議は止むことはなかった。時には別の家で開かれることもあったが、母子二人のぼくンチがおとなたちにとっても都合がよく、またやたらとオモチャを持っている「いさくちゃんチ」が、チビたちにとっても大歓迎だったようだ。

 そんな風に、ぼくはいわゆる母子家庭に育ちながらも常によそンチと一緒にあったがために、親爺がいないことをまるで(本当にまるで)意識せずに育った。いまから思うと背後にあったおふくろの尽力に対しての感謝というのもあったのだろうが、どこのウチに遊びに行っても「いさくちゃん」は歓迎され、可愛がられた。日曜日、幼なじみのMの家に遊びに行くと、ぼくは玄関扉をノックもなしに開け、「こんにちはー」というなり冷蔵庫を勝手に開けてコカ・コーラのホームサイズを出して飲むという、いまいたらぶん殴ってやりたいイヤなガキだったが、「Mのおばちゃん」が後年語ったところによると、ほかにあまり友だちのいないMのところに足しげく来てくれ、Mが面倒を見ない弟とよく遊んでくれるぼくに感謝して、毎日曜日コーラを用意してくれていたのだそうだ。

 話がかなり微に入りすぎたようだが、ともかくぼくは開かれた環境で、街からのたっぷりの愛情を受けて育った。語ったことのいくつかはいま現在のぼくの弱点に直結しているものでもあるが、それもあえて挙げた。ともかくも「今長屋」とも揶揄された団地が、巷間思われているような「閉じた」ものではなく、本当にいまや落語の中などでしか見られないような人情に溢れた時代があったことは確かであった。そしてその頃に少年だったことを、ぼくは本当にうれしく思っている。

 ……ということで、次回は商店街や駄菓子屋などについて記す予定。



 第3巻「団地商店街」は、来週掲載予定です。

【追記】アップしました。(こちら→)

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 昨年のゴールデンウィーク以来、俺の中で「町/街歩き」がぐらんぐらんと煮えたぎっている。
 不定期な外勤めの合間を縫っては、時に独りで、時にご婦人あるいは野郎と二人《サシ》で、時にたくさんの仲間たちと共に町/街を“歩き”、新たに見出される様々な事どもに興奮する体験をしている。
 おんもしろくて、しょうがない!

 きっかけは昨年ゴールデンウィークの、横浜泊。

 先述のように俺の外勤めはカレンダ通り“ではない”のだが、たまさかぽっかりと空きがあったために、
「横浜にでも泊まってみようか」
 ということで関内駅近くのビジネスホテルに宿泊したことだった。

 横浜という地は——また別途記したいが——俺にとってガキの頃から、そんなに馴染が無い地ではない。
 が、「夜の横浜」というのはほとんど経験が無く、だから「せっかくなので」ということで関内から伊勢佐木町に出てみたわけだ。で、足のおもむくままに漂っていたら、知る人ぞ知る「横浜橋通商店街」とか「都橋商店街」とか、そして「野毛」とかを“発見”してしまい、そのあまりの面白さに発狂したという次第。
 あれは凄い宵だった。

「横浜下町」のディテールについては本エントリの本論ではないのでまた別途・うぃず・まぁどんなってとこだが、ともかくもあの宵に、きょうこの現在に至るまでの一年の俺の眼と行動が決定づけられたというのは確かだ。
 俺の大好きな昭和な雰囲気。しかしそれだけではなく新たなる時代の脈動もある。そして何より“居心地のいい場所”であること。
「これはいったい、何だろう?」
 と思い、考え、足を運ぶきっかけとなった。自身の来し方を含め。

 そしてこのことをきっかけにあらためて町と街と(あと、呑み)について沈思し時に実行動に出るようになったのだが、おりしもそこにNHKの番組『ブラタモリ』がありTwitterがありという幸運に恵まれ、この一年間たくさんの拡がりとたくさんの視野を得ることが出来たのはありがたい。
 横浜下町への憧憬から得られるものは実に多い。
 立石、北千住、押上、業平、小石川、王子、そして俺が長く過ごした本郷の再発見なども新鮮だった。(みんなに感謝)
 そして同時にいわゆる「生活動線」の中にあの雰囲気はないかと渇望したことにより、いまやこのブログの表題通り武蔵野に都落ち(笑)した俺が、俺自身が“発見”した秋津界隈(此処についてはまた別途激しく綴る予定)。
 いやまあ物事、憧れこそが大事だろうと。

 ——とまあ何を語りたいのかといえば、人が生きとし生ける中で大事なことはたくさんあるが、町の奥へ奥へと身を進めていくというのもまた必要ではないかなというハナシ。自ら足を踏み入れ、その「場」を知るということ。

 昨今のネット上のロジックや雰囲気だけで物事を断定する傾向とか、ゼネコン主体のショッピング・モールしか近隣にないとか、まあこの辺りは昭和なオッサンの危惧と繰り言でしかないのかもしんないが、やっぱ自身が身を投じてみないとわからないその場所の力とか、もっといえば歴史的な力とか、そんなもんは確実にあると思う。五十路目前の俺だって、横浜下町に身を投じてみなきゃ知りえないものはあったのだから。

 そしてさらに俺自身の話をすれば、Twitterという新しげなネットの場で町/街歩きに興味があるかたがたと知りあいそして共に歩くという場を得られてこそまた拡がった世界はいっぱいいっぱいある。俺もうっかりするとコンピュータ・ディスプレイだけを社会への窓口にしてもいい位にメンヘル爆弾を抱えてる人間だが(笑)、ネットという機会を経て、意気投合したかたがたと会い、共に町/街を歩み、複数の眼で見る(観る)からこそ得られた体験は多い。
「ブラ浪漫」に参加してくださる皆さんに感謝。

 インチキな人生を半世紀近く送ってきた俺だが、町/街の深くへ深くへと入り込むことによって、いろんな真実が見えてきてるように思う。もっともっと勉強し、歩み、楽しみたいな。

 書は捨てず、でも町/街に出よう!


【宣伝】
 というわけでTwitterアカウント「ブラ浪漫」では、町/街歩きが好きな皆さんとの出会いをいつでも待っています。ご興味のあるかたはぜひフォローしてくださいね♪
http://twitter.com/bura_roman

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