武蔵野独り暮らし、日々雑感。
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 ※※ 以下は2006年08月13日に、夏休みスペシャルとしてmixi日記に連載として綴ったものです。 最近Twitterで知りあい懇意とさせていただいているかたより「ぜひ読みたい」とのリクエストをいただいたため、ここに再掲するものです。全7回の5回目です。 原文ママのため、誤字脱字もそのままとします。 ◎第1巻「輝ける10年間」(→) ◎第2巻「カギっ子を包むものたち」(→) ◎第3巻「団地商店街」(→) ◎第4巻「駄菓子屋讃歌」(→) 荒俣宏の『帝都物語』、星野之宣の『ヤマタイカ』、宮崎駿の『もののけ姫』……など、1980年代後半より、この国のいわゆる「正史」ではない部分、陰に隠れた部分に注目した作品が続出し、同様のテーマはいまも根強い人気を得ている。それについての論考はまた稿を譲るが、これらの諸作におそらく大きな影響を与えたと思われるものに、1985年初版発行のカッパ・サイエンス(光文社)『鬼がつくった国・日本』という名著がある。副題は、「歴史を動かしてきた『闇』の力とは」。 現在では「その筋」ではすっかり有名になった文化人類学者・民俗学者の小松和彦先生と写真家の内藤正敏さんの対談集で、興味のあるかたはぜひ読んでいただきたいと思うのだが、その詳細はともかくとして、この中で取り上げているものたち――ことに「『鬼』のネットワーク」という項を読んだときにぼくが真っ先に思い出したのが、“住宅公団が造った計画都市”であるところの武里団地の外部にへばりつくように在った駄菓子屋と(前回参照)、団地の外部から来て内部のそこここに出没し、少年のぼくの心をとらえて止まなかった「露天商のおじさんたち」であった。 事前にことわっておくと、ここでいう露天商とは、お祭り(団地まつり)などのときに店を連ねる、よくある「たかまち」の人々のことではない。大きく括れば彼らも同じところに入るのかもしれないが、そうした子供心にも組織されたように見えたものではなく、(表向き)個人経営のように見える――もっといえば「さすらい人」のように見えた人々である。彼らはいつもぼくの日常の中に忽然と現れ、夜の帳とともに去っていった。 印象に残っているもののうちひとつは、中央集会所の前、ぼくンチからの団地商店街への入口のスロープの前に時折出ていた、地面にゴザを引いただけの露店。やって来るおじさんは毎度違い(と、記憶している)、相互に関係があったのかは知らない。扱う商品といえば怪しげなおもちゃや手品、それにヒヨコなど。そしてその場所はずばりぼくの通学路であり、それはあたかも、ぼくのような阿呆な少年を待ちかまえる罠であった。 多くの少年・少女がまずこの罠にかかったが、それぞれさまざまな理由でとどのつまりはスルーしていたと思う。ぼくも多くの場合は小遣い銭と相談して泪をのんだはずだが、しかしどうしてもヒヨコを飼ってみたかったり、手品のタネを知りたくて死んでしまう病にかかることも少なくなかった(笑)。そんなときぼくはややしばらく物欲しそうな表情(かお)で滞在し会話をしたあと、おずおずとおじさんに「お手伝いさせてくれる」ことを願い出たものだ。ようするにアルバイト、報酬としてヒヨコやおもちゃをもらおうという魂胆である。そして多くの場合、おじさんは首を横に振ることはなかった。 もうそうなると天下を取った気分である。ぼくはヒヨコが育って卵を産むところや、「お楽しみ会」で手品を演じ喝采を浴びる場面などを夢想しながら息急き切って家に帰り、ランドセルを投げ出すと、張り切って取って返した。そしていかにもおじさんの「関係者」であるような顔をして、ほかのこどもたちを相手に「いらっしゃい、いらっしゃい!」とやった。級友などが通りがかろうものなら、もう得意満面である。「お客さ~ん、30円じゃ足りないねえ」などとおとな言葉を真似したりして、悦に入っていた。 報酬は得られるときもあれば、得られないときもあったやに記憶している。つまるところ、あんまり「憶えていない」のだ(笑)。ようするに終わってみれば報酬などはどうでもよく、なんとなく「ちょいワル(ぷっ!)」な気分で怪しげなおじさんを手伝い、かつおとなっぽい真似事をする行為がうれしかったのだろう。このことはぼくの中で鮮烈な印象として残っている。だからぼくは、娘たちが乳飲み子のときに預けていた共同保育所のバザーのときも、いつも「おもちゃのオヤジ」をさせてもらい、やって来るガキどもを大いに手伝わせた。それとてももう20年近くも前の話だが、彼ら少年たちの活き活きとした表情を見て、心から安堵したものである。 閑話休題。もうひとつは、カンケリやケイドロなどの主な舞台となった、東集会所の下によく来ていた「やきとりのおじさん」である。こちらはぼくが高学年になった頃から、毎日のように出店していた。メニューは「とり」と「レバー」のみ(味付けももちろんタレのみ!)。半畳ほどの大きさの「焼き場」だけの、屋根も何もない店だったと思う。 1本たしか20円。倍の値段の団地商店街の肉屋の焼き鳥より格段に美味かった。すでにおふくろの財布から100円玉をちょろまかすことを覚えていたぼくは(笑)これを大いに喰らい、おじさんに「財閥」というあだ名を付けられた。当時はよくわからなかったが、後年意味を知って赤面したものである。さぞかし「憎テエなガキだ」ぐらいに思われていたことだろうが、おじさんはいつもやさしかった。ここでも時折、お店を手伝わせてもらった。 「東集会所」というのは団地商店街からはかなり離れ、もう100メートルほど南に行くと団地が途絶する場所にあった。店は人気で大繁盛、おじさんも主婦連の扱いは上手だったが、いまから思うとそうした場所にバイクひとつで乗りつけ、白衣をまとった満身を夕日で染めながら黙々と焼き鳥を焼き、そして夜の闇の中に去っていくおじさんの姿に、こども心にそこはかとない寂寥感を覚えていたのかもしれない。いつかおじさんの家は何処にあるのか訪ねたことがあるが、「あっちのほうだよ」としか答えてくれなかったように記憶している。 光あるところに影がある まこと栄光の陰に、数知れぬ忍者の姿があった 命を懸けて歴史を作った影の男達 だが人よ、名を問うなかれ 闇に生まれ闇に消える。 それが、忍者のさだめなのだ ご存知、テレビまんが『サスケ』のオープニング・ナレーションである。ぼくは放送当時からいつの間にかこれを諳(そら)んじており、いまでもこうしてググることなく記すことができるが、このことはたぶん、放送(再放送を含む)と同時期に触れ合った露天商のおじさんたちと、無縁ではないように思う。ぼくの心の奥深くに、「正史」では語られないおじさんたちの姿が、いつでもあるのだ。 というわけで次回は「総集編」……かな?(笑) 第6巻「麗しき孤独」は近日掲載予定です。 【追記】アップしました。(こちら→) PR |
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